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May 15, 2025

第78回カンヌ国際映画祭報告(1)|カンヌ国際映画祭開幕
槻舘南菜子

[ cinema ]

CANNES 2025_AN_220x300mm_RVB_300dpi.jpg カンヌ国際映画祭が5月13日に開幕した。今年ほど例年と比較しセレクションの発表が混乱を極めた年はなかったであろう。開幕5日前まで公式部門上映作品の追加発表が複数回続き、最終的にコンペティション部門はビー・ガン監督『Resurrection』が22本目の作品としてセレクションされるに至った。一方、その混沌さに反して、これほど欲望と精彩を欠くプログラムとなった年はないだろう。公式セレクションが十全に仏映画産業の論理に拠るのは常だが、鑑賞前から熱狂できる作品がほぼ見当たらない。開幕上映作品仏女性監督アメリー・ボナン初長編『Partir un jour』はまさにそれを象徴しているように見える。映画祭歴史上初、開幕上映を飾ることになる本作は、同名の短編で仏における米アカデミー賞に当たるセザールを受賞している。しかしながら、国内の権威が国際的なそれとは異なるのは自明であり、ミュージカル仕立てはあるが決定的にリズムに欠け、たびたび長回しで撮られたシーンは見るに耐えるものではなかった。ダブルで初長編でも主演を務めるジュリエット・アルマネとバスティアン・ブイヨンの国際的な知名度にも疑問は残る。だが、近年、短編を出発点として初長編に至る仏製作システムのモデルとなる作品ではあるだろう。公式部門作品の外国映画はほぼ例外なく、北米の何本かの作品とヨーロッパでも強固な製作体制を持つ国以外は仏共同製作か、あるいは仏配給がすでに決定している作品しかない。フランスによるフランスのためのフランス映画祭、カンヌとは、仏にとっての壮大な先行上映の場なのだ。
 一方、併行部門の一つである監督週間は、アーティスティックディレクターにジュリアン・レジを迎えた三年目の年であり、公式部門とは「異なる」独自のプログラムを謳ってはいる。開幕作品『Enzo』は、昨年死去したローラン・カンテ監督「作品」を、ロバン・カンピヨが「監督」したとしてクレジットされている。主人公、16歳のエンゾは両親の期待に反しながらも自身の欲望にも忠実になれない中、見習いとして働く建設現場でウクライナ人のヴラドに出会う。彼との出会いとともに思春期の様々な揺らぎを一夏を介して描く。昨年のソフィー・フィリエール『これが私の人生』(娘であり女優であるアガタ・ボニゼールが今作の編集に参加しているが、彼女はレジ氏の就任一年目には、監督週間のセレクション委員の一人として名を連ねていた)に続き、開幕上映を追悼の場とすることで、公式部門から落選した作品を掬い上げているのは明らかであり、死を独自性に書き換える卑劣な行為に他ならない。さらに、今年は、セレクションの19本中8本を初長編が占めている。コンペティション形式で初長編と二作目を扱う批評家週間がすでに併行部門として存在し、かつ、公式のある視点部門が数年前から若手監督に開かれた部門になった今日、監督週間に選ばれる初長編にクオリティが伴うことは果たして可能なのだろうか。若手監督の凡庸な作品ではなく、多様、そして偉大な映画作家ーもし、それが壮大な失敗作であったとしてもーの作品を見せることこそが、そもそもの監督週間の役割ではなかったのか。前ディレクター、パオロ・モレッティが開拓した実験、異形映画は影を潜め、年々、全体の傾向が明らかに演出ではなく安易な物語性に向かっている。
 もう一つの併行部門、批評家週間の開幕作品『Adam's Sake』は、ベルギーの女性監督ローラ・ワンデルの二作目に当たる作品だ。2021年にある視点部門にノミネートした前作『Playground/校庭』での子供の視点とカメラの視点を同化させるスタイルが、同国を代表するジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督を彷彿とさせたのは記憶に新しい。最新作は、病院を舞台に子供を物語の核におきながらも、看護師役にレア・ドリュッケールを、母親役にアナマリア・バルトメイを主演に迎え、栄養失調の息子を持つ母親を救おうと奮闘する物語となっている。今作でのダルデンヌ兄弟が製作への関与がさらに拍車をかけたのか、自国を「代表」する映画監督の作家性を再生産し、その国のシネマトグラフィを閉じ込めることに徹しているのみで新味はない。この傾向は、ある種のキャリアを築いた監督、その製作に携わるプロダクションが、新人監督を手掛ける際に陥る万国共通の罠でもあるだろう。批評家週間のセレクション全体を見回すと、以前からの傾向でもあるがコンペティション&特別上映部門を含めた11本中10本が仏製作を占め、残りの一本もオランダとベルギーの共同製作作品となっている。もはや、ヨーロッパの資本なしでセレクションされることは完全に不可能なようだ。さらに輪をかけて、最後の砦であった短編部門もまた、今年は半数以上が仏製作となっており「新しい才能」とは、来るべき初長編が容易に仏映画産業に通じているか否かに掛かっているとしか思えない。それは発掘されるのではなく、システムによって「創り出される」ものであり、その過程を経た近年、カンヌを含めた三大映画祭で発表される仏製作による若手監督作品が主題も美学的にもどれも似通っているのは当然と言える。仏は映画製作の助成金が充実し、システムによって守られているのが評価される一方で、それが映画祭のセレクションへ与える弊害も考えるべき課題であるだろう。それを理解してもまだ尚カンヌに来るのか?そのシステムの裏をかき、己の作家性を十全に発揮する監督が稀に存在する。これからの10日間は絶望しながらもそれを探し求めるのだ。

カンヌ国際映画祭公式サイト