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July 19, 2025

『私たちが光と想うすべて』パヤル・カパーリヤー
吉澤華乃

[ cinema ]

watahika_hoka1.jpg IndieWireのインタビュー(IndieWire's Filmmaker ToolkitのPodcast)にて、インド人女性であり本作の監督であるパヤル・カパーリヤーは次のように話している。「例えば、私たちは友達との付き合いの中で時々間違いを犯します。そんな時いつも家に帰ってから、『なんであんなこと言ってしまったんだろう?』『どうしてこんな返答の仕方しかできなかったんだろう?』と私は考えるのです。このような、自分の本心とは反するアンナチュラルな言動を作品に取り入れたかった。そして、それらはちょっとした自己投影でもあるんです」。たしかに冒頭のムンバイの街のシーケンスが示唆するように、『私たちが光と想うすべて』はインドのムンバイで生きる女性たちの姿を、そっくりそのままドキュメントとして映し出したかのような映画ではある。しかし、本作においてどこからともなく聴こえてくる音の数々は、まるで天使が空から降り注ぐかのようにこの作品のナラティブな側面をも牽引している。

 例えば、嬉々する様子を体現したかのような軽やかなピアノ音楽は、主人公プラバ(カニ・クルスティ)の同僚でありフラットメイトのアヌ(ディヴィヤ・プラバ)が、ボーイフレンドのシアーズ(リドゥ・ハールーン)と交流する際にたびたび挿入される。2人は異教徒同士のため恋愛関係を結ぶことはタブーとされており、おたがいの顔を見るのはいつだって日暮れ後、人混みに紛れられる雑多な街のどこかに限られている。だからここで流れるピアノ音楽は、そんな2人の逆境さえも乗り越えていくことを可能にさせるような存在だ。しかしその一方、小躍りする2人においては単に夢を見せてくれる魔法に過ぎないこともまた事実である。シアーズの家族が家を空けるため、その隙にとムスリム教徒しかいないエリアの彼の自宅にブルカを着用することを条件に招かれたアヌは、大雨の中でそれを購入しに店を訪れる。この時、いつものピアノ音楽が鳴らないことに不安を覚えたのも束の間、豪雨により家族が出席予定だった結婚式がキャンセルになったため「今日は来ないでくれ」とシアーズから連絡が来る。すでにブルカで頭を覆い彼の家へと向かっていたアヌは、悲しげな表情でそれを外す。その時、いつもの調子とは異なる、アヌの表情よりもよっぽど悲しげなピアノ音楽が、まるで「ごめんね」と言っているかのように流れるのだった。
 そんなアヌをいつも近くで見守っているのが、プラバである。彼女の夫は、お見合い結婚後すぐにドイツへと行ってしまい、今や音信不通の状況だ。そんな相手ならすっかり蚊帳の外にやってしまっているのかと思いきや、事あるごとに既婚話を話してみたり、送り主不明のドイツ製炊飯器に動揺したり、しまいにはそれを抱きしめながら「彼は帰ってくるんだってずっと考えているの。そして、私と一緒にいたい、住みたいって言うの」と語るのだった。この時、初めてプラバにも例のピアノ音楽が降り注ぐが、それは夢の中に生きるアヌと夢を語ることしかできない彼女自身の立場の違いを表出させている。そして、魔法が魔法でしかないことを知らないプラバは、アヌの夢見心地な言動に我慢の沸点が達したとばかりに辛辣な言葉を投げる。自身の本心とは反する言動をとってしまったプラバは、謝罪の言葉とアヌの好物であるフィッシュ・カレーをしたためて彼女の帰りを待つ(いかにも、カパーリヤー監督が話した「ちょっとした自己投影」である)。

 舞台は変わってインド西海岸の村であるラトナギリ。プラバとアヌは、法的理由からムンバイの家を立ち退かなくてはならなくなった同僚のパルヴァティ(チャヤ・カダム)を、彼女の故郷であるこの村まで送っていく。文明から切り離されたような海辺の村・ラトナギリは、開放的でどこか神秘性を感じるような場所だ。アヌと彼女を追ってラトナギリを訪れたシアーズは、溢れんばかりの太陽が降り注ぐ森の中で愛を育む。そしてメッセージでのやり取りや横並びでの会話、食事中に一方が携帯に気を取られていたりと、これまで正面からたがいを見つめ合うことがなかった彼らの眼差しが、初めて交わるのだ。さらにここで聞こえてくるのは、いつもの嬉々としたピアノ音楽ではなく、どこか落ち着いたギターの音だ。夢の中でしか生きることのできなかった者たちが、おたがいを見つめ合うことによって初めて心を通わせた瞬間だとも言えるだろう。
 その夜、プラバは浜辺に打ち上げられた瀕死の男を救出し、彼の療養に付き添う。すると、救出された男は彼女の夫の生命が乗り移ったかのように、彼女に向けて話し始める。「僕と一緒に来てくれ」プラバの手のひらに口付けをしながらそう話しかける男を目の前に、彼女は目を涙でいっぱいにしながら「あなたにはもう二度と会いたくない」と囁くのだった。こうした夢想にも近いマジック・リアリズムな対話に寄り添うのは、教会の礼拝堂を彷彿とさせる穏やかで優しいオルガンの音である。永く、プラバに孤独を与えていた感情が、この映画を見守る天使の音の魔法によって召された瞬間だとも言えるだろう。ヒンドゥー教徒が8割を占めるインドをまっすぐに捉えたこの物語が、他宗教をベースにした劇伴を通じてクライマックスを迎える。伝統を引きずる結婚方式を21世紀に強いられ孤独に苛む女性、宗教の違いに苦慮しながらも愛し合う若者たち、法を目の前になす術のない未亡人や言語の壁を感じながらも詩を紡ぐ医者。本作のナラティブな側面を担う音楽たちの存在は、「異なるもの」と対峙し、苦しむ人々をもそこから光を見出すための、ひとつのメッセージでもあるのではないだろうか。

 ラストシーン、浜辺の簡易な飲食場でプラバ、アヌ、パルヴァティ、そしてシアーズはひとつのテーブルを囲む。それぞれがそれぞれの過去と決別し、目の前にある新たな光と向き合おうとしている。そして、彼/彼女たちと同じように重要なのが、この場所で店番をしている中性的な出で立ちの少女の存在である。彼女は性別、宗教、階級といった、社会の枠組みに翻弄されながらも、「光と想うすべて」を信じて強く生きる大人たちをここまで見守ってくれていた天使のようにさえ見えてしまう。潮音や風音、虫の声といった自然の音とともに聞こえてくる音楽。まるで大人たちの門出を祝福するように、少女はそのリズムに合わせて軽やかに舞い踊る。そんな光景を目にしたいま、光を信じることのできる世界がこの先もあったら良いと私は強く願う。

7月25日(金)よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ ほかロードショー