『スーパーマン』ジェームズ・ガン
結城秀勇
[ cinema ]
プロモーション時に「スーパーマンは移民だ」と監督が発言したと報じられ、保守系メディアが総叩き、それでも映画は大ヒット。いいと思う。このご時世に、誰がどう見ても疑いようのないほどプロパレスタイン。いいと思う。ごくわずかな例外を除いて、犬もリスもウシもテナガザルさえも死なない。とてもいいと思う。今年こんな映画があること、まさに参院選の選挙日当日である今日こんな映画が日本で公開されていること、それははたから見る以上に困難なことでもあっただろうし、とてもありがたいことだと思う。それでも。
それでも、その先で言葉が詰まる。ガザの子どもたちにこの映画を見せたいとはどうしても思えないからだ。彼らに「スーパーマンは必ず来るよ」なんて口が裂けても言えない。別にあえて遠い国に思いをはせるまでもなく、この2週間ほど、メディアでもリアルでもそこここに飛び交う言葉の刃に傷つき、疲弊した人たちにさえも、「大丈夫、スーパーマンは必ずくるよ」なんて言えそうもない。
敗北を繰り返し、SNSの中傷に傷つくスーパースターというスーパーマン(デイヴィッド・コレンスウェット)像の改変よりも、レックス・ルーサー(ニコラス・ホルト)という定番悪役の再解釈のほうにこの映画の真価がある気がする。彼の欲望は、巨大な富や名声にはなく、一国の王になるという野望ですらない。彼が欲するのは、ただひたすら、スーパーマンを排除することだけ。なぜなら、「彼のように光り輝く存在がいると、どうしても自分の弱さが目についてしまうから」。
遠くの国で危機に瀕した子どもが助けを呼ぶとき、スーパーマンは自分自身と戦っているので、助けに行けない。このシチュエーションはあまりに私たちが置かれた状況に似ている。私たちもまた、自分自身との戦いに疲弊して、どこか遠くで困っている人を助けに行くことがなかなかできない。この映画での解決策である「他の誰かが代わりに行く」という選択肢にも、そこまで期待を抱くことはできない。この映画のメッセージをまっすぐに受け止めるなら、「代わりに行く他の誰か」とは、「他ならぬこの私」でなければならないはずなのだが。
そんなことを考えながら、昨日、とある政党の最終演説を聞きに行った。スピーチする全員が、インボイス、外国人差別、女性差別、終末期医療自己負担、障害者差別、その他諸々の、光に照らし出された自らの弱さを他の誰かのせいにせずにはいられないことから生まれたさまざまな事象に対して、怒り、哀しみ、苦しんでいた。最後に出てきた政治家はこう言った。「こうしたことにたくさんの危惧や不安が広まっています。不安を抱えているみなさん、大丈夫です。私たちがいます」と。
彼らが「スーパー」な人たちだと言いたいわけじゃない。彼らを信じれば大丈夫だとも思わない。それでも「スーパー」でない私たちでも、そこに光を当て、そこにある弱さを見つめることはできる。たとえそれが、自分自身の、耐え難い弱さだとしても。それを見つめたとき、人ははじめて「大丈夫」という言葉を口にすることができるのだと思う。