『中山教頭の人生テスト』佐向大
結城秀勇
[ cinema ]
週末に都議会選挙を控えたこのときに、『中山教頭の人生テスト』という映画から読み取れることを、あらゆる思想主義主張の人々、都民だけでなくすべての国民、いや、世界中の全員にひとことで伝えるなら、「悪は存在しない」ということだろう。まず、外国人でも老人でもなんでもいいが、それを排除すればすべてがうまくいくなんていう都合の良い「悪」なんてどこにも存在しない。当たり前。と同時に、そうした言説を弄して利を得んとする輩を「悪」と見なして排除することが勝利、などと思うこともやめることだ。ここまで来たらもうどういう結果になっても勝ちも負けもない、ただの地獄だ。その覚悟なしに目先の些事にこだわることは、結果的に日和見主義者ども(主義などというものすらないただの習性なのだろうが)を利するだけだ。
強権的に見える振る舞いを続ける校長(石田えり)は、自らの権力や体面にこだわる身勝手な人間なのか、本当に子供たちのことを考えて決断を下しているのか。息を吸うようにセクハラパワハラを繰り返す元校長(風間杜夫)は、教職にある者として風上にも置けない見下げ果てた人間なのか、それともダメなところは多々あれ仲間思いなところもある人物として許容すべきなのか。名推理という名のただの決めつけを繰り返してはなにひとつ反省しない体育教師は、いじめの首謀者は、それを面倒だからとやり過ごす子供たちは、そしてそもそも主人公たる中山晴彦(渋川清彦)は、いい人なのか悪い人なのか。
これまでのすべての佐向作品がそうであったように、ここには誰ひとりいい人もいなければ、悪い人もいない。彼らは「いい」「悪い」のような個人の属性によって行動の規範を決められているのではなく、ただたんにピンボールの玉がピンに弾かれて道筋を変えるように、絶対に変えることのできない状況下を右往左往する。世界の終わりのようだが、決して終わらない世界。それは時に悪夢のようでもあり、スラップスティックコメディのようでもあるのだが、おかしなことにそれら以上に現実にも似ていて、嫌になる。
善や悪のような基準がまったく使い物にならず、人の行動を規定するのは意志などではなくただ純然たる配列にすぎないようなこの世界で、どのような法が機能するのか(映画の中の話をしているのか映画の外の話をしているのかわからなくなってくる。それともどちらでも違いはないのだろうか?)。むしろこの映画の最大の倫理は、誰もほかの誰かを裁くことなどできない、ということだろう。この映画の最終盤に置かれた、中山教頭のまなざしは、どんな罰よりも、深く我々を貫く。
そしてもうひとつ。この映画の主演が渋川清彦でなければならなかった理由と言ってもいいだろう、「先生や大人がこうしなさいって言うことは全部まちがってる」というセリフ。そう、この文章でここまで書いてきたことも全部間違ってる。「世界中の全員」に伝えたいなんて書いたのも嘘だ。ほんとうはこんな世界にした大人たちに言うべきことなんてない。自分で始末をつけろ。でもなにか伝えなければならないとしたら、こんな世界を背負わされる子供たちに、だ。まずごめん。そのうえで、善意も悪意も信じるな。一貫性なんて信じるな。手のひらなんてグルグル返せ。それこそが「行け」という号令がたやすく「死ね」という合唱に変わってしまうこの場所で、ギリギリ生き延びるための方法だ。内なる欲望に耳を傾けろ。そして、ここにはいない者の欲望の声を聞け。死ぬな、殺すな、それでもなお、行け。