『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』大九明子
安東来
[ cinema ]
キャンパスを見下ろせる建物の屋上の地面に寝転がりくつろぐ小西(萩原利久)と友人の山根(黒崎煌代)にとって、その場所は建物下の芝生広場で横になる勇気がない自分たちの特等席らしく、芝生広場が人工芝なのに対してこちらは天然だから価値が高いと冗談交じりに話す。つづいて山根が植木の桜を見上げ、枝がか細いと言えば、小西は屋上だから根が張りにくいのではと答え、さらに山根はそれはいつまでも若いってことやねと返す。結局その場所の価値なんて見方ひとつで変わるということだ。そのお気に入りの場所に、小西が桜田花(河合優実)を連れてきたとき、彼女が同様に人工と天然の優劣を指摘することも興味深いのだが、それ以上に聴こえてきたチャイムの音に対して、「ここやと大きさちょうどいい」と言うことが重要な気がする。それはその少し前にキャンパス内の廊下で出会った2人がチャイムの音が大きくて、大きい音は怖いという話で共鳴していたことと連なる。ここだといろいろちょうどいいんだと小西もまた言うその「ちょうどよさ」も結局のところ相対的な問題に過ぎないのだし、あるいは距離の問題と言ってもいい。
他の大勢多数の学生たちとの距離の取り方や「ちょうどよく」はない世界のなかでどの程度の武装で「ちょうどいい」距離を保つかといったところで意気投合する2人が、そのことをセレンディピティという語で呼んで感嘆し合うなら、それは「ちょうどよさ」がちょうどいいだけに過ぎない。けれど、桜田がお気に入りの場所紹介のお返しに、舞台となっている関西大学の博物館に小西を案内して、そのなかの北村兼子の展示の前で、卒業生でもありジャーナリストでもあり女性運動の活動家でもあったその人の肉声が流れる前で、それに呼応するように怒りの感情を吐露するのは、その展示が、その肉声が桜田にとって「ちょうどいい」からでも「ちょうどよくない」からでもない。「DNAに組み込まれてるんかなっていうくらい女として腹立ってくる」と言う桜田の声に重なるように北村兼子の肉声が聴こえている。そもそも原作にはないこのシーンが異様なのは、「ちょうどよさ」の塩梅や過剰さ(テレビの音量を最大にするしない)が終始語られる物語とは関係ないからであり、だからこそ物語的にはあざといと言われる恐れがありながら、北村兼子の声は画面の中でふつうに聴こえているに過ぎないからだ。
同様に、これも原作にはないのだが、親パレスチナデモ行進とその連帯を呼びかける声も物語の流れとは特に関係することなく、フレームに切り取られた風景のなかで聴こえる。一度目は小西が桜田との約束の待ちぼうけを食らう正門前で、近所の人々や部活のランニングなどに続いてデモ行進とシュプレヒコールは画面を横切っていく。二度目は小西と山根が仲直りして、足を怪我した小西に山根が肩を貸しながら銅像の前でふざけていたときに、画面外から「ジェノサイド反対」というデモの声が聴こえて、二人は視線を上げる。画面を横切っていくデモ行進を前に、小西と山根は俺たちも歩きたいと言ってデモの末尾に連なって遠ざかっていく。二人がデモの波に連なっていくのは、デモの声に声を重ねるのは、その声が聴こえるからであるし、それを聴いて自分も声を出したいと思うからであって、それが「ちょうどよかった」からでも「ちょうどよくなかった」からでもない。
小西の銭湯のバイト仲間のさっちゃん(伊東蒼)は、小西がうるさすぎるとビビる返却ポストへの鍵のけたたましい落下音を「最高は最高なの」と言う(これも原作にはない)。その音が最高なのは自分にとって「ちょうどいい」からじゃなくて、その音をその音としてちゃんと聴いてるから最高なのであって、自分の「ちょうどよさ」の尺度に甘んじて、その音を聴いているのとは違う。その音が自分にとってどれだけ過剰なのかとか、他の音よりどれだけ大きく聴こえるかとかではない。自分の聴こえる音を、誰かの声を「ちょうどよさ」でもって搾取しないことではじめて、それをそれとして聴いて呼応し連帯する可能性が生まれるのではないか。テレビの音量を最大にしてほかのすべての音を覆いつくすような「初恋クレイジー」を聴くよりも、さっちゃんの口ずさむ「初恋クレイジー」を聴きたいし、誰かが歌う「初恋クレイジー」を聴いて思わず口ずさむのがずっといい。