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August 22, 2025

『わたのはらぞこ』加藤紗希
隈元博樹

[ cinema ]

映画わたのはらぞこスチールmain1.jpg 『わたのはらぞこ』とは、「わたのはら」(海原)と「わたのそこ」(海の底)の造語「海原の底」のことである。そもそも本作の舞台である長野県上田市は、2019年に市内を流れる浦野川でクジラの全身化石が発見されたことから、この地はかつて大きな海だったそうだ。その後、地層の堆積を経た上田は、いまもなお真田氏が栄華を築いた城下町として、あるいは神社仏閣、伝統工芸、温泉地などといった観光資源の豊富な地として知られている。大昔にクジラが生息していた場所だったとは想像しがたいものの、信州の地に海原の底はたしかに存在していたようだ。
 またもうひとつ、『わたのはらぞこ』には主人公が抱える「私の腹の底」の意味も掛け合わされている。東京での日々に疲れ果て、逃れるようにして上田を訪れた休職中のヨシノ(神田朱未)。そんな彼女に待ち受けるひと夏の「休憩」に、せわしなくもあらゆる人々が行き交う。市内の困りごとを請け負う便利屋のばんちゃん(加藤紗希)をはじめ、音階のドとソの距離について熟考しては不器用さが露呈する岸(釜口恵太)、化石と地層とのダイナミズムに魅了された半田(豊島晴香)は、自らの感情や表情を抑え込んだヨシノの周りを絶えず往来する。また「マルチ布」と呼ばれる生地でつくられたハンドメイド作品を高値で売るヤン(本荘澪)、どこからともなく現れてはヨシノに見つけられるトワコ(湯川紋子)、青い服を着ては彼女の前にすっくと現れるみつめ(髙羽快)など、実在しているのかさえ曖昧な人物たちも、腹の底を見せようとしないヨシノの休憩に特殊な彩りを与えていく。さらには「犀の角」や「上田映劇」などで働くまちの人々も、ヨシノやその周りを往来する彼/彼女たちと呼応するように、現れては消えていき、消えたと思えばまた別の場所にいたり......。こうしてヨシノの休憩は本人曰くがちゃがちゃながらも、積み重なった地層を分け入るようにして人々は彼女を発見し、ヨシノの腹の底へと近付いていこうとするのだ。
 このように本作の画面は、そのほとんどがヨシノを捉えたフレーム内を上田の人々が入り乱れることで成立している。それは前作『距ててて』においても言及したように、ある人物を捉えた画面上に、次々と他者が闖入していく姿と等しく重なる。やがて他者に触れた者たちは、往来する他者が拵えた言葉や世界の中へと少しずつ足を踏み入れていくようになる。そのことでおたがいにあったはずの距離は溶け合い、ゆっくりと縮められていくのである。
 ただし、『わたのはらぞこ』が『距ててて』と少し違って見えるのは、その距離を縮めていくためにリリックの掛け合いが存在することにある。例えば、ファーストショットに登場する「リリックつくる部」のリリックづくりは、初手の人物があるお題を仲間に投げかけることからはじまる。次にお題を受けた相手は、音のリズムとお題に踏まれたライム(韻)に合わせて次々と言葉を紡いでいく。こうして相手が出した言葉やアイデアに呼応するように、別の人間がもうひとつの言葉を発明しては接合を繰り返し、最終的にひとつのリリックに仕上げることを試みるわけである。その後リリックを生み出す作業は、ばんちゃんとヨシノが市内を歩く場面においても受け継がれるが、ふたりが生み出したリリックはたがいの言葉とアイデアとが密接に結び付かなければ成立しない。そういったふたりの腹の底を媒介するリリックによって、彼女たちは目に見えないまでの距離を縮めていくことになるのだ。
 そして本作におけるリリックの境地は、ラストにおけるヨシノからばんちゃん、ばんちゃんから半田、最後はふたたびヨシノへと連なる反応と反射の応酬だろう。一方的ではなく、絶えず両者の共鳴によって紡がれていくリリック。そのことが別の誰かへと伝播したとき、上田の人々は海の底の魚たちのように自ずと動き始める。かつては大海原であり、様々な時代の土が折り重なった地を練り歩く人々の大団円とアンセムは、私たちの目と耳へどのように響き、また映るのだろうか。正直、休憩はひとりで行いたいけれど、みんなで過ごす休憩も悪くはない。少なくともその光景を目に焼き付けたいま、私の目からはひとしきり自然と泪がこぼれ落ちたのだった。

8月23日(土)よりポレポレ東中野にて公開

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