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October 3, 2025

パトリシア・マズィ監督インタビュー

複雑な人生を送る人として向き合う

[ cinema , interview ]

phonto 3.JPG パトリシア・マズィ監督の映画は、あらすじとしては簡潔にまとめられる物語であっても、どこか掴みどころのない複雑さを帯びているように思える。そうした印象を抱くのは、語りの形式が複雑だからではなく、具体的な描写を迷いなく淡々と積み重ねていくことによって、言葉にし難いさまざまな側面が立ち現れてくるからだろう。今回は『サターン・ボウリング』を中心に、そうした細部がどのように生み出されているのかを伺った。


──ファーストシーン、ファーストショットはいつもシナリオの通りでしょうか?

『サターン・ボウリング』(2022)に関してはシナリオ通りです。雨の中、アルマン(アシル・レジアニ)が運河の側を歩き、ある男と再会する。そこで彼らがどのような関係か、見ている人はまだわからないと思いますが、お互いが言葉を交わすことに消極的なことはわかる。そしてその後アルマンはクラブに行く。シナリオもそのようにはじめていました。第一部は弟アルマンの視点から、第二部は兄ギヨーム(アリエ・ワルトアルテ)の視点から、というような厳密な構成、かつそれを三つの街を跨ぎながら撮らなくてはならない。さらに順撮りでもないですし、編集の段階で組み替える余地もありませんでしたね。

──アルマンがケバブを食べるという身振りもシナリオに?

あれは演じるアシルが現場でテイクを重ねていくなかで演出部と相談して決めたものです。

──そこですぐに兄弟だと示されないように、マズィ監督の映画のファーストシーンはいつも物語をわかりやすく伝えるよりも、見るものに戸惑いを与える、謎めいているように思えます。

最初からすべてを語ろう、わかりやすく語ろうとしても面白くないですからね。

──『ボルドーに囚われた女』(2024)の冒頭も、時系列的には物語の終盤の場面を持ってきていますが、所謂フラッシュバックとして示されてはいないですよね。映画の終盤でじつは過去の出来事だったとわかる。

アルマ(イザベル・ユペール)がお菓子の箱を持って、花屋にいる場面ですよね。あそこで見せたかったのは彼女が孤独で脆弱な存在であるということです。フラッシュバックであることを示すために、「〜ヶ月前」などの字幕を入れる方法もあり得ますが、おっしゃるように、謎めいている方が好きなのかもしれません。あるいは、あの場面は未来であると同時にアルマのこれまででもあるのだと思います。彼女のいまの人生はミナ(アフシア・エルジ)と出会うことではじまるのですから。

──謎めいたはじめ方にも関わることですが、全体的な語りの部分においても俯瞰的に物事を見せるのではなく、場面ごとに特定の登場人物に寄り添うことを好まれているように思います。

人生とはとても複雑ですよね。映画において登場人物の人生の複雑さを浮かび上がらせるのは監督の仕事というよりも、俳優の仕事だと思います。俳優が登場人物の人生の複雑さを浮かび上がらせようとするときに、どこにカメラを置くのがよいのか、どうしたら俳優の演技に寄り添えるのかを考えるのが監督の役目です。
『サターン・ボウリング』では、たしかに全体を眺めるようなショットはないですが、まるでロングショットのなかで登場人物たちが孤立しているかのような印象を与えるショットを意識していました。つまり登場人物たちがいる場所を具体的に見せつつ、孤立した彼らも見せるのです。アルマンの場合は、いろいろな音がうるさく響くボウリング場。ギヨームの場合は、工事中で乱雑な雰囲気の警察署において、孤独を抱えているわけです。

──人生の複雑さを表現させるために、俳優たちにあらかじめ登場人物の心理を説明することが必要だと思いますか?

俳優によりますね。私は俳優ごとに演出の仕方を変えてもいいと思っているので、心理を説明するのが嫌だということはまったくないです。ただ心理よりも俳優が演技をする際に必要なのはツールだと思います。
たとえば『走り来る男』(1988)のジャン=フランソワ・ステヴナンの場合、ムショ帰りなので本来だったらよれよれの服を着ているところですが、あえて新品の服を着させました。持っているバッグには古い服が入っています。つまり、彼は故郷に帰る前に洋服屋に寄って、新しい服を買い直したということですよね。彼は弟に復讐するために、その前に準備を整えてきたわけです。主人公ローランが兄として振る舞うために服装というツールを行使しているように、彼を演じるステヴナンもローランであるために衣装というツールを利用しているのです。
『サターン・ボウリング』の場合も衣装が重要でした。ギヨームにはずっと同じ仕事用のスーツを着させている。アルマンには父の形見のレザージャケットやアクセサリーを身につけさせています。いい俳優ならば、そのようなツールをうまく使いこなせることができるのです。そういえば先ほど質問していただいたケバブも、父の死を告げられても無関心を装う、という演技をするためには何かを食べさせてみた方がよいと思い取り入れたものでした。

──ツールの存在が、シナリオの理解を深めるだけではなく、現場レベルで新しいアイディアを生み出すということもあるのでしょうか?

あります。『サターン・ボウリング』では美術部がいろいろなアイディアを出してくれて助けられました。たとえば、アルマンが緑を基調とした父親の部屋に入る場面で、美術部のスタッフが「ぼくを驚かせてみてよ」とアシルに言ったんです。するとアシルはタバコの箱をどこのポケットに入れたか忘れてしまい探すという動作をその場で考え出しました。それから、猟銃があったり、ナイフがあったりするなかで裸の状態のアルマンがクローゼットの洋服に手を出すというアクションを撮るとき、おそらくずっとそのままクローゼットに仕舞われていたであろう飴玉を見つけて、笑いながら舐める、銃弾が入っていた箱を開けて、そこに紛れ込んでいた指輪をはめる、という動作が付け加えられました。それらの身振りも私ではなく、アシルと美術部が考えたものです。憎んでいるはずの父親の部屋でアルマンが少し滑稽な動きをし、笑う。そうした細部によって、シナリオには書き切れなかった複雑さ、生々しさが生まれていると思います。ただ憎しみがあったり、恐れがあったりするわけではないのです。

──いまおっしゃっていただいたようにアルマン、もしくはギヨームも自分の欲望や心理を自分でも把握できていないような、揺れ動いている人物ですよね。

アシルやアリエの演技のおかげでそのような人物に見せることができたと思います。アルマンは、目の前の物事に対して予期せぬ形で反応してしまう。それは他人を驚かせると同時に、自身をも動揺させてしまうのです。そのアンコントロールな状態を作り出すために先ほどのような細かい演出が必要だったわけですね。
アルマンは無自覚に父親のような怪物に近付いてしまうわけですが、それはギヨームも同じです。弟が自殺をする最後の場面で、ギヨームはニヤリと笑います。当初アリエはその笑みやスアン(Y・ラン・ルーカス)を突き飛ばすという演技を嫌がっていました。ギヨームがいい人だと思っていたからです。しかし、実際には彼もあそこで、憎んでいた、そうならないように注意していた父親と同じ怪物になってしまうのです。

──あのラストシーンもシナリオ通りですか?

大枠はすでに決まっていました。兄弟たちが決闘をし、アルマンの方が死ぬ。ただ予算も時間も限られていることからそのシーンをデヴィッド・フィンチャーのように長々撮ることはできなかった。それでもその場面を意味のあるものにするにはどうすればいいのか悩んでいました。そこで編集のマティルド・ミュヤールに相談してみたら、いいアイディアを出してくれました。この映画の男たちは女性に居場所を与えない、そのような終わりにしてみてはどうかと。ギヨームがスアンを突き飛ばし、アルマンの死に笑みを浮かべるという流れはそのアイディアから来ています。

──お話を聞いていて、細かい演出を現場で積み重ねていくうちに、当初シナリオに書かれていたものとは異なる物語の側面を発見していくのがマズィ監督の映画づくりなのだと思いました。

私だけではなくて、どの監督もそうだと思います。当たり前のことですが、撮影というのは時間や場所、予算との兼ね合いを考えながら行われるものです。それこそシナリオはそれらを調整するためのツールと言えるでしょう。
シナリオももちろん撮影を進めるうちに少しずつ変わっていくときがあります。たとえば猟友会の人々を撮るとき、プロの俳優が二人しかおらず、あとは演技未経験だったので、どうすれば彼らが昔からの集団性を維持しているように見えるのかを考えていました。コロナ禍だったこともあり、リハーサルもあまりできず、彼らに馴染んでもらう時間を用意できそうになかったんです。そこで大島渚の『日本春歌考』(1968)で宴会をしている男たちが合唱をしている場面を思い出し、みんなで同じ歌を歌わせることで一体感を生み出すのはどうかと思い付きました。サッカーのサポーターが歌うチャントみたいなものですね。撮影の少し前にオリジナルの曲を作り、唯一撮影以外で彼らが集まった衣装合わせのときに歌ってもらったんです。そのことが功を奏して、ボウリング場でのあの怖い場面が生まれました。

──マズィ監督の他の映画にも言えることですが、その土地に根付いている保守的な集団が必ず描写されますよね。『ポール・サンチェスが戻ってきた!』(2018)でも猟友会が出てきますし、『ボルドーに囚われた女』でもブルジョワのパーティーが開かれている。主人公たちはいつもそうした集団から疎外されたり、あるいは自分から距離を置こうとしたりしている。ただ興味深いのはそうした集団性が必ずしも悪意を持って、単なる嫌な人たちとして演出されているようには感じないところです。

たしかに私はどんな人物でも、たとえ人種差別をするような人でも軽蔑することはありません。魅力的に撮ろうとまでは思わないけれども、人間として、つまり複雑な人生を送る人として向き合おうと心がけてはいます。先ほど怪物と言ってしまいましたが、アルマンやギヨームに対しても私のスタンスは変わりません。

取材・構成:梅本健司


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