10月10日 粗さと重さ
[ cinema ]
山形初日、新幹線で11時頃に着いて、腹ごしらえと一服のためオリオンカフェへ。安くておいしいキーマカレーセットに満足して、会場へ向かった。
『愛しき人々』は、チリの刑務所内で女性たちが携帯で撮影した映像をもとにしているという。冒頭では、その映像を何らかの意図(読み落としたのか、はっきりとはわからなかった)で保護するため、紙に印刷したと示される。終始、携帯の縦長の画角による画面で、目の粗い静止画とともに、おそらく収監中に撮影した女性のひとりの声によるナラティブが重なる。「女性たち」という複数形と、エンドロールの証言者・撮影者の複数の名前から、そのイメージや語りが集合的なものであることがわかる。ナレーションを録音したのは出所後だろうか。少なくとも映される静止画や動画とは別の時間にあり、それが同じ画面の上にある。デジタル映像を紙に印刷し、それを再びデジタルで再構成すること(紙を刷る機械音も聴こえた)――その方法の意味自体も重要だろう。映像を構成するひとコマひとコマが滑らかに連続すれば描かれていることがよくわかる、というものではないのだと感じた。
次に見た『ずっと一緒に』の英題は Welded Together。ベラルーシの集団農場で溶接工(welder)として働くカーチャの生活を描く。一連の動きをカットで割るなど、いわゆるフィクション映画の手法が多く見られ、生活空間においても被写体と近いカメラの存在はほとんど意識させられない。幼少期にアルコール依存症の母から引き離され孤児院で育ったカーチャが、母と暮らすために都市ブレストに移り、溶接工場で男たちに囲まれながら働く様子は、この夏に見た『天竜区』を撮った堀禎一ならもっとこう撮るだろうか、と一瞬考えた。しかしこの作品は確かにカーチャを撮っている。母との生活を取り戻したい気持ちと、アル中の母のもとにいる幼い妹への心配――いろんな状況や感情の只中で、つなぎとめようとする思いが、溶接する仕事の身振りと、苦慮して動かない表情とのあいだに描かれる。母親が飲んで帰ったあとの自責の表情と、翌朝のピロシキのような揚げ物を調理する姿とのコントラストにも心を動かされた。ラストの劇的な展開に思わず声が漏れそうになったが、何よりも1歳そこらの妹が動きまくっていてすごかった。
夜は駅前の「花と木」でいも煮定食を食べた。小さな店内のカウンターに大小二つのテレビが並んでいて、大きな画面では石破首相の戦後80年所感が流れ、横の小さなほうではノーベル平和賞の発表が流れている。少し酔った常連の女性客が小さな画面を石破に変えた。両方石破になった。いも煮は甘くて美味しかった。(安東来)
「アメリカン・ダイレクト・シネマ」のプログラムの性質上、加えてノーネスさんと生井さんの解説が毎回つくこともあって、他のプログラムを挟むということもできず、結局一日中参加した。
リチャード・リーコックが第二次世界大戦の様子を戦場カメラマンとして収めた映像を見ながら、そういえばアイダ・ルピノの一人目の夫ルイス・ヘイワードも同じように戦場カメラマンとして従軍していたことを思い出した。ヘイワードはタラワ島での激戦を収めたその短編『タラワの海兵隊とともに』で、アカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞するが、戦場で目の当たりにした光景によってPTSDに苦しむことになる。リーコックはどうだったのだろうかと思いを馳せる。
プログラム1の最後の作品『バワリーにて』は、マンハッタンのドヤ街(ラオール・ウォルシュの『バワリイ』と同じ舞台)でその日暮らしをする人々を描いており、どちらかといえばセミドキュメンタリー・スタイルのフィクションに近いのだが、中心人物を演じたレイ・サリャーがすごい二枚目で、その素人とは思えない佇まいに惹きつけられる。それこそウォルシュの『私の彼氏』でルピノの相手役を演じたブルース・ベネットに少し似ている。すなわち男性らしい色気がありながら、どこか傷ついていて、陰鬱な雰囲気がある──後に監督としてルピノが描いた男たちと同じように。他に出演作はないのかと調べてみると、『バワリーにて』が映画初出演で、他の人物たちと同様じっさいにバワリーでたむろしていた酒浸りのひとりだったらしい。ただ、その後ハリウッドのスタジオからやはりオファーがあったようなのだが、本人はそこまで俳優活動に興味はなく、『バワリーにて』も日銭を稼ぐために出演したに過ぎないとある新聞の取材で述べていた。彼もまた退役軍人だったのだという。
手持ちカメラでの撮影は基本的に好きにはなれないのだけれど、ほとんどが手持ちで撮られているダイレクト・シネマを見ても不思議と嫌にならない。上映会場のすぐ横にダイレクト・シネマや、同時代のドキュメンタリーの撮影に使われていたカメラが展示されていて、そのうちのひとつを持たせてもらえた。持つとわかるがとても重い。こんな重いものをかついで、ケネディやキューバ代表団の背中を追っていたのかと思うと素直に感動する。たしかに今回見たダイレクト・シネマの作品には、手持ちであっても軽やかなものなどひとつもなく、重さとどう向き合うかが常に問われていたように思う。(梅本健司)
どの作品を観るかギリギリまで悩みつつ、インターナショナル・コンペティションを中心に鑑賞することにした。
『終わりなき夜』、熱狂的にキリスト教を信仰し、異言を語り出す人、サンタクロースの恰好をして懐中電灯を売る人らを通して、私たちは彼らの背後にある植民地支配の歴史や今も続く搾取の構造に気付かされる。彼らを「後回し」にし続けているのは誰なのか、鑑賞する私たちに深く問いかけるものだった。
『愛しき人々』では、一見自由そうにも見える刑務所内ではあるが、子どもと引き離され、家族との関係に悩み、それぞれに葛藤があることを知る。協力しながら力強く生きようとする彼女たちの抵抗の記録だった。
『ずっと一緒に』はドキュメンタリーとは思えないカットが多く、劇映画のようだった。ケアや労働を強いられながら妹の将来のために自分を犠牲にし続ける主人公の姿は、ベラルーシだけでなく社会構造による普遍的な問題として受け取ることができる。
その後、「パレスティナ―その土地の記憶」特集へ。パレスチナ/イスラエル研究をされている早尾貴紀氏が冒頭の挨拶で「パレスチナは『記憶の戦場』である」と語っていたことが印象的だった。ファラハとサハルというパレスチナに生きる女性に焦点を当てた『豊穣な記憶』では、男性主義的な社会の中で土地を守るための闘いや生き方を模索し、抵抗を続けるそれぞれの姿があった。「私は人のものを取ったりしない」というファラハの言葉は、イスラエルによる物理的な搾取だけではなく、パレスチナ人社会の中で彼女たちが自由に生きる尊厳や権利を奪われ続けてきたことを表しているのだろう。また、パレスチナ革命に向かっていく過程で制作された『ガザの占領の風景』では、ガザ地区の形成とイスラエルによる占領、そこで展開されてきた抵抗運動と人々の声が記録されていた。パレスチナとイスラエルの間で再び停戦合意がなされようとしているが、私たちはそれをただ喜ぶのではなく、パレスチナの記憶に触れ、その記憶を消させないための責任が問われているのだと強く思う。(金在源)