10月13日 いかつい人々をあとに鳩は温泉へ飛ぶ
[ cinema ]
『烤火房で見るいくつかの夢』はSF叙事詩みたいだ。その集落、一族には歴史がある。神話的な起源と移動の歴史。日本統治下、国民党時代の同化の変遷。そして、伝説の男がいる。タイヤル族出身の監督の実家には村でただひとつ残った烤火房(プラーハン)があって、火をくべる窯があるその小屋で、孫と祖母、親族、村の人らが集っておしゃべりする。一周忌を迎えた亡き祖父は容易に話せないほど厳格な人物で、村一番の狩猟の腕があり、誰よりも一族の習わしに精通した伝説の長老だったと、誰もが口々に語る。祖母をはじめ、叔母、そして10代半ばで子どもを授かった従姉妹の女性たちのドラマがある。従姉妹の婚姻の儀式「ガガ」について、祖父を欠いた両家の話し合いが烤火房でひらかれる。祖母が話すタイヤル語と中国標準語の通訳のあいだで断片的で複雑な「ガガ」のしきたりが飛び交う前で、若い新郎新婦は目を丸くしている。タイヤル語で「スピ」という夢みたいなイメージの中では、顔の見えない男が山の中をひとり進んでいて、不完全なタイヤル語で祖父との対話がなされる。その祖父の神話的、神秘的な映像が、叔父に演じてもらったものであることを明かしたかと思えば、生前の老齢で薪を割る力もない祖父とそれに代わって力強く薪を割る祖母の映像が見せられる。神話は漠然とあるのではなく、あるとすれば、祖母が烤火房で薪を割りくべる手つきや織物を教える手つき、あるいは少年が乗り回すスクーターのエンジン音の響き、そんなところにあるんじゃないかとか思った。
『Ich war, ich bin, ich werde sein!』はいかつい映画だ。冒頭の黒黒と光るシャッターの音がまずいかつい。そして、カメラの前に出てくる釜ヶ崎の人たちの存在と話と声がいかつい。街の風景のショットはほとんど無くて、人を撮ることに一貫したいかつさがある。スタンダードサイズがそれをさらに際立たせる。いかついっていうのは、やばっ、とか、つよっ、みたいな、頭で状況や背景ふまえてそれらしい判断をする前にある感覚。一番最初に出てくる、ヤクザやテロ事件やのとんでもない話をするおっちゃんのとんでもない話は、それがほんとかうそかなんてことより、強くておもろい。怒りがあるから何かを言ってるというより言葉に怒りと強さがある。そして、そこであったことやそこにいる/いた人たちのこと、いろんなことをよく知ってる。そのおっちゃんは第六感があると言ってた。道端で叩き売りをしてるおっちゃんもよく知ってる。2019年に閉鎖されたセンター(あいりん労働福祉センター)がもう再開されないだろうことや警察官が通り過ぎることを。アル中のおにいさんは隣町の阿倍野ではうまくいかないけど、釜ヶ崎では酒を恵んでくれる人がいることを知ってる。鳩使いのおっちゃんは傷ついた鳩をすぐ見分けることができるし、鳩もおっちゃんをすぐ見分けてやってくる。でもどうやらなんでここに来たのかはみんなようわからん。上映後のサロントークで、監督の板倉善之と共同制作者の佐藤零郎は、なぜ釜ヶ崎の問題について活動している人たちを撮らなかったのかという質問に対して、そこで生きてる人を撮るほうが直接伝えることができるからというようなことを言っていた。目の前にいるひとを見る、わかろうとすることからはじめるということ。鳩使いのおっちゃんは鳩に餌をあげたら鳩のフンで風紀の問題があることも知っている。でもそれしか知らないなら傷ついた鳩を見分けられない。
最終日の今日は宿を10時にチェックアウトして、夜のバスの時間ギリギリまで見れるものを見た。リュックとダッフルバッグを抱えて動き回るのに疲れて市民会館の前の広場で少し横になった。共栄火災の大きな看板にスズメが群がり、カラスの大群が空を覆うように移動していくのが見えた。歩きに歩いても祝日で駅前の店が軒並み閉まっていて24時間スーパーで割引の巻き寿司を買って駅前のベンチで貪りながらバスを待った。トホホ。お土産を買うことを思い出してももう遅い。なんでこんなことになったのかようわからん。本当の意味でもっと贅沢な時間の使い方をすれば良かったと思った。最終日は昼頃に起きて美味しい昼飯食べて喫茶店で一服しながら新幹線を待ってビールを飲みながらゆっくり帰る。再来年はそうしよう。それとも一昨年みたいなテント野宿をさらに洗練させようか。いや、今考えることじゃない。(安東来)
『Ich war, ich bin, ich werde sein!』を見た。空やビルなどのいくつかの実景ショットがあったあと、派手な色の服を着た白髪のおっちゃんがカメラに向かって話しかけている。「俺は山谷で28年働いて、横浜で20年、西成に来て50年働いている。73歳」。このおっちゃんの捲し立てるような話し方とどう考えても合わない計算式にホールの観客がどっと笑う。映画が始まってから観客が笑うまでの速さにまず感心する。瞬時に心を掴まれた観客たちはいわゆるゲラのような状態になってしまい、この山崎と自称するおっちゃんがどこか胡散臭いエピソードを話すたびに会場がどっかんどっかんと笑いの渦に巻きこまれていた。
次の場面に出てくるまた別のおっちゃんもまぁ面白いのだが、彼が地面に座って路上販売をしながらインタビュアーと話すなかで、フレーム内に数羽の鳩が入ってくるショットがあったことを覚えている。鳩は地面に布一枚を敷いて置かれた品物をいくつか突いたあと、ポリスが漕いだ自転車の風とともに飛び去っていく。その取るに足らない出来事が画面の奥側であたりまえのように映っていることがとてもいいと思った。釜ヶ崎のおっちゃんたちが戯けてみせるのは、何らかの事情によって素性を見えにくくする必要があるからだと、映画を見ている途中でふと気付く。そんな得体の知れない彼らの話を話半分で聞きながらも、しかしカメラには上述したような偽りのない小さな出来事がぽつりぽつりとたしかに映り込むのだ。おそらくこれは私だけかもしれないが、この映画を見ながら思い出したのは、日々の小さな出来事に目を見開いていくことを撮った、ケリー・ライカートの『ショーイング・アップ』だ。
Q&Aで聞きたかったことを少し書いておきたい。今作は最初のショットから最後のショットに至るまで一貫して下から上に向けてショットを撮っているように思う。実景ではビルの隙間や空を、人物を撮るにしてもいわゆる目高(目線の高さ)よりは下の位置から撮影している(宣材写真の山崎さんのショットのように)。このショットの低さはたとえば被写体との関係性によって生まれたものなのか、あるいはコンセプト的に決めていたことなのかは気になった。いずれにしてもこの映画の倫理に関わることのように感じたからだ。(松田春樹)
「沼木温泉 辻ヶ花」。駅から車で10分程度、山形市内に大量にあるレンタサイクルを借りれば映画祭が開催されているあたりからもまあ行けなくもない温泉。
写真の通り、田んぼの真ん中に忽然と出現する温泉。露天風呂に出るとこんなに田んぼ丸見えでいいんですかと心配になるほどの絶景(?)が広がる(さすがに男湯だけで女湯はちゃんと隠されているとのことなのでご安心を)。内風呂露天ともにぬるめと熱めの二種の湯があり、好みに合わせて利用できます。(結城秀勇)