10月14日 薄闇のなかで誰かと会う
[ cinema ]
午前はヤマガタ・ラフカットに参加した。ヤマガタ・ラフカットは公募で選出された15分の映像(未完成で制作途中の作品でもよい)を見て、参加者同士で感じたことなどを話し合うための場。山形ドキュメンタリー道場などでも実践されていることがこの映画祭でも体験できる。ただ映画を見るばかりでは疲れてしまうと思い、参加してみた。ヤマガタではこのような参加型のワークショップやイベント、シンポジウムなどがそこら中で開かれていて、あらゆる人々が自由に参加できるのがいい。ラフカットでまず驚いたのは、監督が監督として名乗らなくてもいいというルールがあるらしく、今回の上映では結局どの方が監督なのかが最後まで分からなかった。制作者と観客の間に境界がなく、全員がひとつのスクリーンに対してフラットな状態で作品を見て、自由に意見を言うことができる。海外からの方も参加されており、同時通訳が行われた。
一回目の上映が終わったあと、コーディネーターが「それでは何かある方......」と挙手を募る。15〜20人くらいだっただろうか、自分も含めてみんなの気持ちはよく分かる、最初はなかなか手を挙げにくい。15秒くらいの沈黙が続いたあと、五歳くらいの小さな女の子がすっと手を挙げた。彼女は会場でマイクを手渡す係をしていた子だ。コーディネーターは照れくさそうに「じゃあ......」といって彼女にマイクを渡す。「ふたつあります。ひとつは瓦が落ちて割れる音がよかったです。もうひとつはこの地震が起きた場所はどこなんでしょうか?」 あまりにも簡潔で、迷いのない意見にその場にいる大人全員が頭を抱えたに違いない。こんな小さな女の子に一番目を任せてしまい、様子を伺っていた自身を恥じた。彼女の勇気ある行動のおかげで、それからあとは大人たちが次々と手を上げ、時間切れまで意見が途絶えることはなかった。
私が参加した回では、阿部修一郎さんの『正院にて』という作品が二回上映された。能登半島地震によって公費解体が決まってしまった老舗の味噌屋さんと地域の電気屋さんの日常を記録した作品。固定ショットで解体作業が進む様子が淡々と映されていく。半壊した家屋の内側から外に向けてのショットがあった。家屋の柱がちょうどフレームのようになっていて中央が広く奥行きのあるロングショットで外に開かれている。柱などが手前側で次々と倒れていくなかで、広がった空間に目を凝らすと、遠くの方で新しく耕したであろう畑のような場所が見えた。そこには味噌屋の娘たちが種を蒔く姿がたしかに映っている。素晴らしいショットだった。
時間の都合上、次が最後の作品になるだろうことはわかっていた。午後もラフカットの第二部に参加するかどうか、かなり迷った挙句、小ホールのダイレクトシネマを自分のクロージング作品に選んだ。ロバート・ガードナーの『祝福の森』である。英題Forest of Bliss。これはもう......素晴らしすぎて言葉を失った。ロバート・ガードナーについて調べたことをここに書くつもりはない。むしろSPUTNIKのNo.6に掲載された早川由真さんの評『輪廻の軋み』が五感を研ぎ澄ましながら本作を具体的に捉えているため、ぜひ読んでみてほしい。私からはただひとつ、アカデミックになにかを突き詰めた人がここまで官能性に振り切ったサイケデリックな作品を表出するに至ることができるのか、と驚いた。
ラフカットから小ホールに行く間に階段下の屋台で食べたどんどん焼きが美味しかった。お昼時だったから、どんどん人が集まっていた。スタッフは一人だったが手際よく調理をして、順番に案内していた。どんどん焼きを待っている間、知らない人たち同士で肌寒い中、横並びでいたのに互いに言葉を交わすことはなかった。呼ばれた人から順にそれぞれの場所に帰っていった。私もそうした。(松田春樹)
橋の下芋煮会。会場はやや遠いが、寒さもそこまででよかった。監督たちも一般のお客さんたちも入り混じり、誰が誰かもよくわからない薄暗さの中で人が回遊していくあり方は、いまはなきかつての香味庵の雰囲気を思い出した。
『公園』のスー・ユーシェン監督を『A Window of Memories』の清原惟監督に紹介する。夜、記憶、声なき声、数々のキュートなオブジェ、など両者の映画には共通する要素も多いように思う。真っ暗な川のそば、ライトが煌々と照らす一角で、誰のものかもわからない、声と記憶が混じり合っていた。(結城秀勇)