第79回カンヌ国際映画祭報告(1)カンヌ国際映画祭開幕
槻舘南菜子
[ cinema ]
第79回カンヌ国際映画祭は、仏監督ピエール・サルヴァドーリの『La Vénus Electrique』によって幕を開けた。1920年代を舞台にした作品であり、ピオ・マイマイ演じる若手画家アントワーヌは、妻の死後、傷心し筆を止めてしまう。しかしある日、酩酊状態で出会い、霊能者を名乗りつつも見世物小屋で働くスザンヌ(アナイス・ドムスティエ)を介して妻との偽りの交信を始め、インスピレーションを取り戻していくという筋書きだ。筆を折った若き才能を憂う画商をジル・ルルーシュが演じ、過去と現在の時間を交錯させながら三人が奇妙な恋愛関係に嵌っていく。ドムスティエの軽妙な演技は注目に値するが、純粋なエンターテイメントとして消費される完全な商業映画であり、作家映画的な要素は見られない。開幕上映作品は仏での同日公開が数年前から慣例になっている影響もあるだろうが、オープニング上映の選択が今年の22本のコンペティションのラインナップにも影を落としている気がしてならない。
公式コンペティション部門に関わらず、カンヌ国際映画祭では異常な数の仏製作、あるいは仏共同製作作品がセレクションされているが、このことは今に始まったことではない。仏監督によるフランス映画(エマニュエル・マール『Notre Salut』、レア・ミシウス『Histoires de la nuit』、ジャンヌ・エリー『Garance』、アルチュール・アラリ『L'lnconnue』)、外国人監督による仏映画(濱口竜介『Soudain』〔『急に具合が悪くなる』〕、アスガー・ファルハディ『Parallel Tales』、ラズロ・ネメス〔ネメシュ・ラースロー〕『Moulin』)、仏がポスプロを請け負ったであろう作品(アンドレイ・ズビャギンツェフ『Minotaur』、パヴェウ・パヴリコフスキ『Fatherland』、クリスティアン・ムンジウ『Fjord』、深田晃司『ナギダイアリー』、ヴァレスカ・グリーゼバッハ『Das Geträumte Abenteuer』)、仏有名俳優を起用した作品(マリー・クロイツァー『Gentle Monster』)と並ぶ。仏俳優のキャスティングを見れば明白だが、レア・セドゥ、ヴィルジニー・エフィラ、ジル・ルルーシュなどコンペ内だけでも同じ顔ぶれで占められ、助成金を用いた仏の映画製作システムがどのように機能しているのか、ある種の限界さえも示している。
また日本映画においては、2001年以来(今村昌平『赤い橋の下のぬるい水』、青山真治『月の砂漠』、是枝裕和『Distance』)と25年振りに日本映画三本のコンペティション入りーー深田晃司『ナギダイアリー』、是枝裕和『箱の中の羊』、濱口竜介『急に具合が悪くなる』ーーという躍進が話題であるが、当時これらの作品とともにセレクションされていたような映画作家は、今年のラインナップにおいてはかろうじでペドロ・アルモドバルの名前を挙げられるくらいだろう。ジャン=リュック・ゴダール(『愛の世紀』)、マノエル・ド・オリヴェイラ(『家路』)、ジャック・リヴェット(『恋ごころ』)のような映画史を背負った映画作家の名前はライナップにはほぼ皆無だ。商業性とマーケットに偏ったセレクションという点で、芸術ではなく「文化」、作品ではなく「コンテンツ」と称される「映画」は、今年のラインナップの傾向と強い親和性があるのかもしれない。スペイン映画が三本、日本映画が三本というコンペティション部門の歪極まりないラインナップに対し、戦争を主題とした作品(エマニュエル・マール『Notre Salut』、ラズロ・ネメス『Moulin』、ルーカス・ドン『Coward』)が複数あることは、今まさに我々が生きている現実と何かしら繋がっている点だと言えるだろう。
併行部門に関して言えば、前アーティスティックディレクター、パオロ・モレッティからは遥か遠く、プログラムにまったく一貫性のない監督週間部門は、昨年において商業色の強いラインナップであったことは記憶に新しい。しかし今年は、リサンドロ・アロンソ、ブリュノ・デュモン、ラドゥ・ジューデ、アラン・カヴァリエとともに、作家映画を多少擁護する姿勢を見せてはいる。また、これまで積極的には扱ってこなかったアニメーションやドキュメンタリーを複数セレクションし、ジャンルを敢えて表記することで多様性を強調しているが、作品自体のクオリティを検証する必要がある。最後に、批評家週間部門は、11本の長編において9本が仏共同製作作品、残り2本もヨーロッパ関連の作品であり、欧州への偏向は変わらない。システムの中でつくり出された「新しい才能」から逸脱した人材を今年のプログラムでは発掘できたかどうか。そのことが鍵となるだろう。