『誓い 建築家B・V・ドーシ』ヤン・シュミット=ガレ
中村修七
[ cinema ]
『誓い 建築家B・V・ドーシ』を見ると、バルクリシュナ・ヴィタルダス・ドーシ(1927‐2023)の子どものような好奇心にあふれた茶目っけのある眼差しが強く印象に残る。製作年はドーシが亡くなったのと同じ2023年だから、最晩年のドーシの姿を収めた映像となる。撮影時のドーシの年齢は定かではないが、既に90歳を過ぎていたと思われる。足が弱っているようで歩くのはぎこちないが、頭脳は衰えを感じさせることがなく明晰で、彼の語る言葉は魅力的だ。『誓い』は、ドーシが長い生涯において手掛けた建築とそれらを訪れる彼の姿が丹念に撮られた良作だと思う。
監督を務めたヤン・シュミット=ガレは音楽・美術関係のドキュメンタリーを数多く手掛けているが、フィルモグラフィには、インドで撮影した『聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う』(2012)も含まれる。シュミット=ガレは、撮影時のドーシについて、「建築とその背景について、回顧的にではなく、現在形で語ってくれた」と述べている。ドーシの記憶力は驚くべきもので、彼が手掛けたそれぞれの建築の現場責任者と構造技術者の名前すら覚えていたほどだったという。
2023年に95歳で亡くなったドーシの評価は晩年になって高まる一方であり、2018年にプリツカー賞を受賞し、2022年にはRIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダルを受賞した。インドに生まれた彼の建築家としての本格的なキャリアは、ル・コルビュジエ(1887‐1965)がインド北部の都市チャンディーガルの都市計画と建築を手掛ける際に採用され、パリのアトリエで仕事をしたことに始まる。ドーシがコルビュジエのもとで働いたのは、1951年から1954年にかけてだ。御茶ノ水にあるアテネ・フランセなどを設計した吉阪隆正は1950年から1952年にかけて同じくコルビュジエのもとにいたから、ドーシと吉阪は一緒に働いた時期があることになる。
『誓い』では、ドーシが最初期に手掛けたものから代表作がたどられていくのだが、全体を通して、コルビュジエのもとでモダニズム建築を学んだインド人建築家がどのようにインドの歴史と風土に根ざした建築をつくり上げていったかということが示されていく。BGMはハンガリーの作曲家ベーラ・バルトーク(1881‐1945)の曲が主に用いられており、バルトーク自身がピアノを演奏したノイズ混じりの古い録音が何度も繰り返し流れる。東欧の民俗音楽を採集したバルトークとインドの伝統に即した建築を手掛けたドーシには、過去の歴史と風土に根ざしてものをつくる者同士として、時代を越えて通底するものを認めることができるかもしれない。
あるシーンでドーシは、コルビュジエはグル(導師)でありすべてだと語る。ドーシがコルビュジエを尊敬しておりコルビュジエから多くを学んだということは、ドーシがコルビュジエについて語る言葉だけでなく、パリのアトリエで使っていた木製の製図台をインドに持ち帰り、晩年に至るまで使っていることからも分かる。ただし、ドーシの師は、コルビュジエの他にもう一人いる。それは、エストニアに生まれてアメリカで活動したルイス・カーン(1901‐1974)だ。映画では、アーメダバードに拠点を置いたドーシが現場責任者を務めた建築として、コルビュジエが設計した「繊維業会館」(1954)や「サラバイ邸」(1955)とともに、カーンが設計した「インド経営大学アーメダバード校」(1962‐1974)が取り上げられる。その他にドーシ自身が設計した建築として、「インド学研究所」(1957‐1962)、「プレマバイ・ホール」(1972‐1976)、「インド経営大学バンガロール校」(1977‐1992)などが取り上げられている。
冒頭には、「建築とはストーリーテリングであり、旅であり、対話であり、自らを発見する旅だ」と製図台の上に置かれた紙に書きながら読み上げるドーシの姿を捉えたショットが用いられている。この言葉は、『誓い』という映画を要約するものだと言えるだろう。『誓い』は、ドーシが携わった建築をたどることで彼の人生と遍歴について語り、インドの風土と対話しながらつくられた建築を捉え、モダニズムとインドの伝統を調和させることで独自のキャリアを築いた建築家の姿を示している。
タイトルの「誓い」とは、次のようなドーシの発言に拠るものだ。小学生の時に彼は、「人生で何をしたいか」というテーマで作文を書く課題を出された。その際に彼は「安くても良いから何か家具をつくりたい、どの家にも座るための家具や眠るための家具があるようにしたい」と書いたのだという。そして晩年に至ってもなお、ドーシはその誓いを果たさなければならないと述べる。ドーシが家具をつくりたいと述べたのは、彼の父親が家具製造業を営んでいたことも背景にある。建築家になったドーシは、幼い頃に抱いた人々のために何かしたいという思いを生涯にわたり抱き続けてきたわけだ。インド中部の都市インドールにおいて、ドーシは「アランヤ低コスト住宅プロジェクト」(1983‐1989)を手掛けているが、これは低所得者向けに住宅を供給するプロジェクトで、当初は1階建ての住宅に簡単な設備しかなく、家族が増えたり経済的に余裕が出てくれば2階以上の建て増しや他の設備の付加ができるようになっている。
ドーシは早い時期から後進の育成にも力を注いでおり、建築の学校を創設した。バウハウスに匹敵する学校をつくろうとしたとも語られており、多くの建築家を輩出しているという。ドーシが創設したCEPT大学(Centre for Environmental Planning and Technology)を訪ねるシーンが中盤にあるが、その際にはドーシが来たということで、多くの学生たちが群れをなして集まってきており、彼が尊敬されていることがよく分かる。
終盤に収められているのは、ドーシが初期に手掛けた建築を訪ねるシーンだ。だいぶ以前から使われなくなっているためか、周囲には鬱蒼と草木が生い茂っており、たまたま出会った男の子二人に案内されて手を引かれながら、ドーシは目当ての建築へと歩いていく。そこで撮られた数ショットに続いて映画を締めくくるのは、ドーシと男の子たちが道端のブランコに腰掛けて前後にユラユラと揺れる姿を捉えたショットだ。この最後のショットは全編を通して感じられるドーシの大らかな人柄に即しているだけでなく、彼が生涯にわたり保っていた純真さをよく表している。ほとんど1世紀に近い長大な生涯で素晴らしい業績を築いた建築家のドキュメンタリーを締めくくる映像として、これほど素敵なものはない。