『急に具合が悪くなる』濱口竜介インタビュー 「映画にすることでしか出会わないこと」
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最新作『急に具合が悪くなる』の公開を直前に控えた濱口竜介監督にインタビューする機会を得た。なお、質疑のほとんどが映画終盤の展開や演出に集中しているため、初見の印象を大切にされたい方はご鑑賞後にお読みいただくことをお勧めする。
この映画は「そうはならなかったかもしれない」で満ちている。たとえば、あの日、施設の入居者が亡くならなければ、帰りのトラムでマリー=ルーが涙を流し、やがて智樹が走ってくる窓の方を見なかったかもしれない。そもそも夜に睡眠薬を飲まなければ、その時間にトラムに乗ることもなかっただろう。あるいは、入居者のひとりが転倒し、看護師のソフィと言い争うことがなければ、その後に副施設長のオリヴィエに仕事の書類を取り上げられることもなく、書類の下に隠れていた『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』のチラシを思い出すこともなかったかもしれない。伏線が張り巡らされている、というわけではなく、「そうはならなかったかもしれない」ことが重なりあい「こうでしかあり得ない」ような、いまが生まれ、それによって物語が動いていくのを観客は体感していく。終盤の奇跡のような出来事を奇跡のようだと思えるのは、観客がそのようないまが生まれる感覚を、映画を通して掴んでいくからだろう。では、そうした『急に具合が悪くなる』はどのような過程を辿り、いまのかたちになったのか、お話を伺った。
──まず物語の全体的な構成についてお聞きしたいです。とくに真理の故郷である京都に一旦舞台が移るものの、またパリに戻り、最後にマリー=ルーがディレクターを務める介護施設で演劇が上演される後半はどのような経緯でそうした展開になったのでしょうか?
まずフランスでユマニチュードを実際に運用しているいくつかの施設に取材に行ったのですが、その中で本作のモデルとなる施設を見つけました。その施設には同じように中庭があり−−映画に登場するほど大きくはないのですが−−ちょうどユマニチュードを導入しようとしつつも苦労していた。実は前のバージョンでは最後は演劇をしていないんです。ひたすら徘徊を肯定するような、中庭を歩くワークショップをしている設定でした。
演劇を最後にもう一回、というアイディアが生まれたのは、確かちょうど長塚京三さんにオファーしたタイミングだったと思います。長塚さんとであればこういった場面を実現させることができるかもしれないと思って、最後に中庭で演劇をする場面を書きました。長塚さんに「いっちょやってやるか」と思ってほしくてですね(笑)。
日本パート自体は脚本の第0稿と呼んでいた叩き台的脚本の時点からありました。この時点ではまだ、フランスでのリサーチは行われておらず日本人の介護士がフランスでユマニチュードを学ぶという設定で、出会ってからも、お互いの国に分かれて電話やZOOMをしたりする。割合としてももう少し、日仏半々という感じでした。でも、やはり離れているとダイナミズムに欠けるとは感じていて。そこからフランスでの実地取材などを経て、お互いの設定が変わって現在のかたちになったというわけです。
──基本的に順撮りだったとお聞きしましたが、日本パートは最後に撮られたんですよね?
ええ。フランスのパートもすべてが順撮りではないですが、介護施設が一定期間内ずっと借りられる関係から、施設内の場面に関してはできるだけ順番に撮らせてもらいました。フランスが8週間、最後の日本での撮影が1週間です。
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──フランスのパートを撮ってから、日本のパートを撮影したことがヴィルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんの演技に影響を与える部分はあったのでしょうか?
あったと思いますよ、とても。ラストの場面も撮った後ですから。私の仕事も、2人の集中を邪魔しないこと、ぐらいになっていたと思います。
──山の上の場面のふたりのやりとりを見たときに、もしかしたらヴィルジニーさんと多緒さんの共演場面はここで最後かもしれないと思わされました。実際に撮影されたのも最後だったのでしょうか?
そうですね。最終日です。正確には2日間撮っているので、2日分を混ぜ合わせています。
──あの場所はどのように見つけられたのですか?
京丹波であることは決まっていて、ある程度こういう場所というのをプロデューサーの松田広子さんにお伝えしたうえで、フィルム・コミッションの方に紹介してもらいました。いくつか候補があったのですが、最初に見せてもらったのが、もう既にあの場所でしたね。結局それ以上のものが見つからなかった。
──どうして選ばれたのでしょう?
ひとつはリアリティ。真理はまだちょっと歩けるとはいえ、いつどうなるかわからないからそんなに高い山には登れない。それでもその日に思い立って30分くらいで登れるような高さで街並みが見えていること。かつ周りが山に囲まれていて、ある一定の時間までは見えないが、やがて太陽が登ってきて、山の稜線から日の光が差す、そういう場所がそこしかなかった。
──動きがかなり制限される環境で、尚且つカップラーメンを手で抱えているので、なかなか身振りが付けづらい状況ですよね。多くの動きがある場面とこのように止まっている場面とではどちらの方が演出するうえで難しさがあるのでしょうか?
ケース・バイ・ケースであって、一義的には言えません。そもそもカップラーメンにお湯を入れたり、箸を渡したりとこの場面にもそれなりに複雑な動きがあります。これがセリフと一つになるまで、多緒さんも何度もタイミングは確認してやっていました。ただ、座り芝居の場合は、少なくとも撮影現場の戦線が広がらないという意味で、現場の負担は減ります。逆に、例えばセーヌ岸を2人が歩く場面なんかは、ある程度現場そのものが動かないといけない。そうすると、日が出てるうちに撮らなくてはならない状況も鑑みて、撮影時間も限られている。ここでは、座り芝居ほど細かいことはできません。
──マリー=ルーが「パリに戻ろう」という直前に画面外から電車の音が聴こえるのですが、あの音は現場で録れた音なのでしょうか?
聴こえるタイミングは調整しているけれど、たしか現場の音です。
──そうなんですね。あの音がなければマリー=ルーは「パリに戻ろう」とは言えなかったのではないか、と映画を見たときには思わされました。それまで向き合っていたふたりの視線が外れ、それを再び真理の方に戻す勢いでマリー=ルーはあのセリフを言うことになった、という気がしたんです。
なるほど、そこですね。シーン最後に聞こえる電車の音は現場の音ですが、今おっしゃった瞬間に関しては音は後からつけています。あのときの音響がどう出来上がっていったのかというと、あのときの現場のヴィルジニーさんの演技としては電車の音を聞いたのではなく、おそらくは彼女の中で感情を整えるために視線を外した。ポスプロにおいて、サウンド・エディターのポール・エイマンスさんが現場で録れた音と、ご自身で録った音が入ったサウンドライブラリーから選んで本編に貼り付けていくのですが、ポールさんはその身振りを見て、録れていた電車の音を改めて入れたと。
そのサウンドエディットを確認したときにどうしようかな、とはたしかに思いました。電車の音に反応して外を向いたのか、自発的に向いたのかで全然ニュアンスが違う。個人的に、元々の演技を考えると、何の理由もなく、というか外的な要因がなく視線を外すほうが好みだったのですが、この場面の彼女の感情的ピークは必ずしもここではないと思い、それを後に遅らせる意味合いで、電車の音が入ったバージョンを活かすことにしました。
──そのマリー=ルーのセリフに対して真理は「選べない、もう決まっちゃてるから」と返すわけですが、結局真理はまたパリに戻ることになる。その心変わりの瞬間をこの映画は省略しますよね。映画を見ればそれしかないと思わされるのですが、その選択に迷いはなかったのでしょうか?
そうですね。その選択自体に関しては、まったく。ただ、多分、私の解釈は今言われたものと違っていて、むしろそもそも真理は心変わりはしていない。「もう決まっちゃてるから」と言うけれど何が決まっているのかは言わないわけです。こちらとしては、その時点で既に「パリに戻る」ことに決まっちゃってる、という前提で作っています。なので、どの時点で何をどの程度見せるか、はある程度脚本どおりです。
──なるほど。見方が変わりました。その後パリに戻ってくると、施設での会議の場面になります。真理はそこに遅れてあらわれる。そのせいか初見時に真理はもう亡くなってしまったのかもしれないと一瞬思わされました。この構成は脚本から決まっていたものなのでしょうか?
脚本の段階だったかと思います。どの程度見せるか、というのは、真理が現れる際の現場のフレーミングの細かな問題として検討していたと思いますが、先ほども言ったように真理の気持ち自体ははっきりしている。ただ観客にとっては明瞭ではない。そのサスペンスを少しだけ延長している場面です。真理が現れた瞬間に、ああ、あのときの「決まっちゃってる」はパリに戻る方なのね、と観客が納得すると思ってやってるんですが、必ずしもそうは見えない(笑)。そして、実際のところ、それでいいんです。どう感じていただいても。
──演劇が行われる日の場面も真理の登場が遅れますよね。
そうですね。ただヴァネッサのセリフでも見えていない時点から言及しているので、ここに関しては同様の意図はないです。でも、確かに観客はいつ死ぬかわかってないわけですから、そのサスペンスは根本的にあるんですよね。ただ、基本的にはそこはあまり強調していないです。
──二度目の演劇の場面は何日間で撮影されたのですか?
3日間です。いくつかのパートに分けて撮っていて、「騒動」が起きる前までをひとつの区切りとしてそこまで撮ってから、残りの部分を通しで。どちらも何度も繰り返しながら撮っています。![]()
──観客が手に持った楽器を鳴らすタイミングや、智樹の動き、他の入居者たちの動きというのはどのくらい決められていたものなのでしょうか?
楽器に関しては、観客には自分のタイミングで鳴らすように言っています。最終的な音としては、その場で鳴らされた音もありますが、フォーリー・アーティストの方がいて最終的に追加録音しています。
智樹に関しては簡単に言うと下半身の動きは決めていて、上半身の動きはフリーっていうイメージですかね。つまりどこから、どのタイミングでどう移動するかという動線はあらかじめ指定したものです。一方で上半身は何度かリハーサルをしたときに出てきたパターンの中から、演じる黒崎煌代さんがその場で選んでいます。ただ、周囲のリアクションを引き起こすような大きな発声に関してはどこで入れるのかについて、ほぼあらかじめ決めています。
他の入居者の動きに関しても基本は決められています。ただ、最後の舞台で行われる、我々が足裏ダンスと呼んでいるものについては、もちろん何度かリハーサルを経たうえで、やっています。ただ、動きに関しては大枠は決まっていますが、決めきってしまうと動きの自発性がなくなってしまう。なので、ある程度自由にやっていただいて構わないというかたちです。だからよく見ると、色々つながってない。
──自閉スペクトラム症や認知症を患った登場人物を当事者ではない俳優を起用して演出するというのは具体的にどのようなプロセスを踏むものなのでしょう?
大前提として、この物語に主に出てくる認知症の入居者や智樹は、言語的なコミュニケーションはほぼ取ることができない状態です。そのレベルの当事者の人とは、そもそも出演の合意を取ることができない。なので、これらの役を演じてもらっているのは、みな職業俳優です。すべてオーディションを経て選んでいます。ただ、ルイーズやミシュリーヌを演じた方はどちらかと言えば元々は、職業エキストラですね。
智樹に関しては、まず黒崎さん自身に取材をしていただくのが根本です。自閉症の方たちが入居している施設に協力していただいて、一緒に過ごしてみる。さまざまな症状の方たちがいますが、その施設に智樹のモデルとなるような重度のASDの方がいて、黒崎さんにはその方とご家族にインタビューをしたりだとか、一緒に歩いていたりだとか、一緒に時間を過ごして、観察してもらいました。自分も同席した日があって、そこで映像記録をして、こんな発声があり得るのか、とかこのように身体を動かすのか、とかを発見していく。次にそれらを書き出してから、本読みをしたり、動いたりする、ということをしました。そのときには、演劇のワークショップも担当していただいた砂連尾理さんをお呼びして、黒崎さんが思うままに身体を動かしていいと安心できるレベルまで、発声や仕草、歩行などをリハーサルをしていきました。並行して、東田直樹さんの本を読みながら、智樹の知覚や認識のしかたを考えて、それを実践するワークショップもしています。ほとんど表面上は動いていないけど、何を見ているのか、聞いているのか、智樹はどういう人物なのかを考えていきました。
認知症の方たちについてはひとりひとり違う。どちらかと言えば、個々の歴史や内面を作る作業が中心です。動きに関しては、実際に介護施設で準備をしていたので、基本的にはそこにいる入居者の方たちの印象をモデルにしていました。ただ、演じれば演じるだけ認知症には見えなくなってしまう。
──認知症に見えない、というのは?
つまり俳優たちの反応が明瞭すぎる。明確な意志で動かす限り、それはやはり、認知症者の動きに比べてハッキリしたものに感じられる。モノからモノへ視線を動かすと、その一個一個がちゃんと捉えられている「感じ」がこっちに伝わってきてしまう。なので、できるだけどこに立って、どう歩くかという基本的なことだけを決めています。後は、基本的には視線を固定するとか、できるだけ自分で動くのではなく、相手役によって動かされるとか。
──ジェローム・シャパットさんが演じたフィリップ・ムラーノをはじめ、入居者にもさまざまな過去がありますよね。俳優たちがそれに基づいて動くことはあったのでしょうか?
まずキャストのほとんどには「17の質問」というサブテキストを渡しています。『ハッピーアワー』をつくっていたときに、共同脚本の野原位さんや高橋知由さんと開発したもので「幸せですか?」とか「何が好きですか?」、「何が怖いですか?」といった質問にキャラクターが答えるものです。まずは私が書いて、演出する人間はこう考えているが、それは固定的な答えではないので、あなた自身でも答えて欲しい、と伝えています。ヴィルジニーに渡したやつなんかは、フランス語に訳すと30ページくらいありました。でも、おそらく大体の人が10-15ページぐらいの資料を読んだうえで、リハーサルに臨む。ただ、認知症役の人の場合、ただでさえ私が年長者の状況を想像するのは難しいのに、更にフランスで生きてきた人の80年の歴史を考えるのは、単に上滑ったものになる可能性があるので、家族役の人たちとインタビューワークショップをしました。それぞれ、自分の家族との関係や思い出を語る。それらを混ぜ合わせてキャラクターやその家族の来歴をつくっていく、という作業をしています。ただ、ムラーノ家は結構なドラマがあるので、「17の質問」を本人はもちろん、妻役、息子役にも書いて渡しています。そのうえでA4一枚の、ちょっとしたリハーサルができるくらいの脚本を書いて、家族皆で演じてもらいました。それが、無感情で本読みをして演じることの予行演習にもなります。撮影現場では、そのときの記憶を使いながら演じてもらう。動きに関しては、その場で即興的に演じるということではない。だいたい決まっています。感情面のみ、即興を求めている。ただ、最後に智樹の足裏をフィリップが掴むのは、シャパットさんがご自分の判断でやったことだったかもしれない。
──そうなんですね。あの瞬間はそれまでどこか硬直していたフィリップがやっと自分の身体を差し出せた瞬間だと見ていて思ったのですが、そうならない可能性もあったと。
そうですね。いや、言ってて果たして指示してなかったかが、曖昧になってきましたが、少なくとも足を掴んでいるテイクと掴んでいないテイクはあって、掴んでいるものを編集では選んでいます。
──演劇の場面は、さまざまな角度から、固定だけではなく、多少カメラを動かしながら撮影されていますが、撮影監督のアラン・ギシャウアさんとはどのようなコミュニケーションをとられたのですか?
この場面は基本的に2カメで撮っています。足裏マッサージの場面はどのようになるのか、どこでどう人が被ってしまうのかすべては把握できない状況だったので、基本的に視点調整用のレールを引いてはいますが、中盤の真理の足裏マッサージワークショップのところでは、それが気づいたらずっと動いていて、「どうしようかな」と思いつつも、それが最もよく撮れていたので使っています。最後の演劇の場面では、むしろそこまでカメラを動かしている意識はないのですが、動いているとしたら、基本的にはパンによるもので、コランタン・コラージュが担当していたBカメの方が結構自由に動かしていたのではないかと思います。
──演劇を見ている側の人々の表情もさまざまですよね。笑っている人もいれば、戸惑っているように見える人もいる。
どのように演劇を見るのかということに関しても、基本的に自由でした。リアクションを撮り始めたのは後半で、何十回も繰り返したうえでの表情なので、別にフレッシュなものを狙っているわけでもない。ただ、見ててくれればいいと思っていました。違和感も含めて映ってよいだろう、と。ただ、結果として座って見ている人たちが−−実際にお借りしている施設の入居者やスタッフの方が多いのですが−−純粋に演劇を楽しんでくれていた、あるいは撮影行為そのものを楽しんでくれていた、という感覚がありますね。
──演劇の場面で印象に残っている瞬間のひとつは真理とマリー=ルーの抱擁の瞬間です。ロングショットの手前の方でふたりがすぅと抱き合う。初見時はおそらく手前から奥に向かう吾朗の動きに釣られてしまったんだと思うのですが、見逃してしまいました。もともとロングショットで撮影される予定だったのでしょうか?
寄りでも撮っているのですが、そのショットがよく撮れすぎた。ただやはりここも、抱擁の瞬間自体はこの場面のピークではないと思っていたので、あのロングショットでほどよく収めています。
──最後に原作との関係について伺います。原作の中盤あたりから、個々人の人生や体験を物語として取り込むことへの葛藤が、宮野真生子さんと磯野真穂さんの間で話し合われています。映画を撮るうえで、その点はどのように意識されましたか?
「個々の人生や体験を物語として取り込む」ということ自体に対してはなかったです。というのは、結局のところ、宮野さんでも磯野さんでもない人物を描いており、その人物の来歴自体は、ほとんど一から創造されているからです。宮野さんや磯野さんのライフヒストリーを描くならば、葛藤はより強くあったでしょうけど。原作からこのように飛躍をしたのは、言ってみれば観客が現実のお二人の生活への想像を必要以上に伸ばすことを防ぐため。そして、そのことでより映画として原作の精神を語り直せるようにするためです。自分がこの原作を読んで感じたことと響き合う物語を、映画という別メディアで再構成するにはそうするしかないと思っていた。それがどの程度果たされたかは、原作者の磯野さん、そして宮野さんのご遺族に審判をしてもらう、その前提で物語にしていました。
──フランスのキャストやスタッフの方々が原作に触れる機会はあったのでしょうか?
出版はされていませんが、フランスのプロダクションに頼んで、原作は仏訳してもらいました。ヴィルジニーさんはもちろん読まれているし、他のスタッフやキャストの方たちも読んでいます。まったく違う物語が描かれているけれど、同じことが描かれていると言ってくださる方が、ヴィルジニーさんも含め多かったです。キャストもスタッフも、驚くほど献身的に仕事をしてくれました。その根本には、自分たちは今価値のある仕事をしているのだ、という感覚があったと思いますし、それは原作から与えていただいたものと感じています。
2026年6月15日
『急に具合が悪くなる』
監督:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
出演:ヴィルジニー・エフィラ 岡本多緒 長塚京三 黒崎煌代
製作:Cinéfrance Studios, オフィス・シロウズ, ビターズ・エンド, Heimatfilm, Tarantula
配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作
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鳥の方へ――濱口竜介『急に具合が悪くなる』をめぐって|角井誠
引き続き『急に具合が悪くなる』に関連した記事をお届けする予定です。