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June 22, 2026

鳥の方へ――濱口竜介『急に具合が悪くなる』をめぐって
角井誠

[ cinema ]

1.
『急に具合が悪くなる』は、がんと闘病する哲学者の宮野真生子と文化人類学者の磯野真穂の間で交わされた往復書簡を原作とする映画である。知的であると同時に互いの魂に触れあうような濃密な言葉の応酬は、濱口竜介によって、パリを舞台とした二人の女性の物語へと置き換えられる。介護施設「自由の庭」でディレクターを務めるマリー゠ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、日本からやってきた舞台演出家の真理(岡本多緒)の物語。そして、認知症、自閉スペクトラム症、ケア、演劇といった内容が盛り込まれ、さらには資本主義、家父長制といった社会の「構造」の問題まで組み込まれる。これでもかと様々なモチーフを詰め込みながら、それらを緊密に織り上げていく手つきは見事という他ない。
 『急に具合が悪くなる』は、前作『悪は存在しない』(2024)と対照的な映画だろう。もともと石橋英子のライブ用サイレント映像として構想された『悪は存在しない』は、余白の多い、それゆえ観客が空想を逞しくすることが比較的容易な作品であった(同作についてはNOBODY掲載の拙稿をお読みいただきたい)。対して、『急に具合が悪くなる』は余白が少ない。隙のない映画だ。私たちは、綿密に織り上げられた映画を辿りつつ、二人の主人公の、施設の人々の様々な瞬間に立ち会うことになる。いずれが優れているということではない。以下では、本作の緊密な作動ぶりを追いながら、そこにある余白、遊びを見つめてみたいと思う(以下、物語の顛末に触れるため見終えてからお読みいただければと思う)。
still9_急に具合が悪くなる.jpg まずは出会いから始めよう。濱口竜介はたえず、人生を変えるような出会い――再会も含めて――を描いてきた、出会いの映画作家である。『寝ても覚めても』(2018)がその最たる例だろう。マリー゠ルーと真理の出会いのきっかけになるのは、自閉スペクトラム症の青年智樹(黒崎煌代)である。智樹を保護してくれたマリー゠ルーに、何かを感じとったのか、真理は、自作の舞台『近づいて見れば、誰もまともな者はいない』のチラシを手渡す。イタリアで精神病院廃絶という「不可能を可能に」した精神科医フランコ・バザーリアを描く真理の舞台――長塚京三演じる清宮吾朗の一人舞台だ――は、介護施設の運営に悩む彼女の心に響く。二人の決定的な出会いは、上演後のティーチインにおいて、言語を介してなされる。打ちのめされたマリー゠ルーは「不可能は本当に可能だと思いますか」と――他の観客には理解できない日本語で――問いかける。真理は質問をフランス語に訳そうとして、思いとどまり、日本語で応答することを選ぶ。それによって二人は観客から切断されることになる。真理は、質問にただ形式的に答えるのでなく、そこに込められた思いを汲みとって、自らの思いとともに応答していく。こうして、ティーチインのルールは宙吊りにされ、観客と演出家という立場を超えた、親密な対話が生まれることになる。
 二人のやりとりが胸に迫るのは、台詞の見事さばかりでなく、それが身体的なリアリティをもって発せられていることによるものだろう。それは、いまや濱口メソッドとして知られる「本読み」に由来する。本読みとは「出会い」の技法に他ならない。ジャン・ルノワールの「イタリア式本読み」に由来する本読みリハーサルは、「ニュアンスを込めず、抑揚を排して」テクストを読むことに始まる(濱口竜介『他なる映画と1』(インスクリプト、2024年、253-259頁)を参照)。演者は、感情を込めずに繰り返し読むことで、テクストを自身の身体に落とし込む。しかし、本番では、それまで禁じられていた感情やニュアンスが解禁される。俳優たちは台詞に反応し、相互に反応し合いながら言葉を発することになる。そこにおいて初めて、俳優と台詞が、俳優どうしが「出会う」のである。台詞に、相手に反応して生じる、身体的な反応が画面にそのままとらえられる。自身の病を打ち明けて言葉を継ぐ真理を演じる岡本多緒の発話の間や声の震えは、そうしたリアリティを宿していると思う。人物と人物、台詞と演者、演者と演者の三つの「出会い」が重なり合う。
 二人の対話は、ティーチインが終わった後も続く。劇場を出た二人は、フランス国立図書館の方に向かう(フランスで学んだことのある人間には馴染み深い場所だろう)。空は曇っていて風も強い。しかし日本語の「タメ口」で交わされる二人の会話の流れが途切れることはない。並んで歩きながら会話する二人が、横移動の長廻しでとらえられていく。マリー゠ルーは早稲田大学の大学院で文化人類学を学び、真理はソルボンヌで哲学を学んだことが判明する(原作者たちの背景を反映したものだ)。セーヌ川へと向かう階段を降りて河岸に向かう頃には、会話はマリー゠ルーの研究テーマだった少子高齢化と資本主義に及んでいる。マリー゠ルーは、フランス語にシフトし、対話は言語をまたぎながら続いていく。ティーチインとはまた異なる、抽象度の高い思考能力と高度な言語運用能力を前提とした対話。それもまた、本読みあってのものだろう。『ドライブ・マイ・カー』(2021)で、西島秀俊演じる演出家の家福が実践していた多言語での本読みが本作で実践される。二つの言語を解する人間が聞いても、会話のタイミングに違和感を抱くことはまずない。

2.
 他方で、二人の関係は、言語を通じた相互理解だけでなく、より身体的な次元において深まっていく。というか、言語と身体が緊密に連動しつつ深まっていく。『急に具合が悪くなる』は「触れあい」の映画でもある。ここで重要となるのが、「自由の庭」で実践される「ユマニチュード」という認知症高齢者ケアの哲学、技法である。マリー゠ルーは、認知症となった母親の介護について考えるなかで、ユマニチュードと出会ったのだった。
 食堂で行われるユマニチュードについての「講義」の場面を見てみよう。この場面は、『ハッピーアワー』(2015)の序盤にある「重心」のワークショップを想起させる。そこでは、「背中をあわせる」「正中線を探る」「はらわたに聞く」「額で会話する」といったワークを通じて、互いの間で「重心」を探り合う身体の関係性にフォーカスすることが目指されていた(のちに真理が提案する背中あわせのエクササイズは、「背中をあわせる」ワークによく似ている)。ユマニチュードもまた、介護者と高齢者の間で適切な「重心」を探り当てるための技法であるだろう。ユマニチュードの柱の一つである「立つ」はまさに重心に関わっている(それとともに「倒れる」ことが映画の大きなモチーフとなる)。
still1_急に具合が悪くなる.jpg マリー゠ルーはここで、ユマニチュードの柱となる「見る」「話す」「触れる」「立つ」の四つについて触れた後、真理の正面に立って、それらを具体的に示していく。掌で距離を計りながら真理にぐっと近づく。認知症高齢者は視野が狭くなっているから、相手の視野に入って優しく語りかけねばならない。二人の身体が接近するのに合わせて、カメラは逆の位置に入る。そして「触れる」ことについての説明が続く。マリー゠ルーは、真理の顔と手に――触れないように――手を添えながら、顔と手は「敏感(sensible)」な場所だからいきなり触れてはいけないと説明する(その姿勢は、『寝ても覚めても』でいきなり顔に触れる朝子のそれと似ている。『寝ても覚めても』は「いきなり触れる」ことから始まる物語だった)。そして、真理の背後に回り込みながら、まずは肩や背中といった敏感でない場所に広い面積で優しく触れるのだと説く。こうして二人が横並びでカメラに向き合う構図になる。その瞬間、一つの飛躍が起こる。横並びとなった真理とマリー゠ルー。次の瞬間だ、真理はくるりと身を翻し、マリー゠ルーを正面から抱きしめる。そしてマリー゠ルーの魂の最も「敏感」な場所に「触れる」言葉を放つ。講義はそのまま二人の関係に作用するのである。二人は互いに触れあい、支え合う関係へと移行する。
 翌朝、真理は倒れ、重心が崩れる。それとともに、触れあい、支え合いは一層深いものとなっていく。新幹線でマリー゠ルーの肩に頭をのせる真理。二人は、京都は丹波にある真理の実家に到着する。ここで印象的なのが、足裏へのマッサージである。真理はマリー゠ルーの靴下を脱がし、足裏を拭いて、足裏マッサージを始める。『寝ても覚めても』でも、仙台から帰った後、朝子が床に寝転んだ亮平の靴下を脱がして足裏マッサージをする場面があった。普段の生活で他人の足裏に触れることは滅多にない。室内でも靴を履いて生活する文化圏の人間にとってはなおさらだろう。足裏に触れることは、親密な関係性、あるいはプロフェッショナルな関係性なしにはありえない。足裏は、顔や手と同様に、感覚神経の集中したとても「敏感」な場所でもあるだろう。マリー゠ルーもまた、真理の足裏を押さえ始め、互いに足裏を押さえ合う。足裏のコミュニケーション。ユマニチュードの提唱者であるイヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティは「体に触れることは、脳に触れること」だと言っている(『「ユマニチュード」という革命』誠文堂新光社、2016年、206頁)。足裏マッサージは、互いの身体のありように触れると同時に、互いの脳に、魂に直に触れるような親密な行為でもあるだろう。
 ここまで見てきた観客にとって、翌朝、山の上でなされる「ありえない」決断はもはやそれほど「ありえない」ものではないかもしれない。早起きした二人は、山の上に登る。木の幹に腰掛けて、カップラーメンにお湯を入れて会話を始める。二人の背後に据えられたカメラが、日が昇るとともに刻一刻と変化する風景をとらえる。高校の同級生の話をする真理。マリー゠ルーは意を決して「死ぬのは恐くないか」と問いかける。そして、意を決して、一緒にパリに戻らないかという提案がなされる。真理は答える。「選ぶことはできない。もう決まっているから」。その言葉の意味を、私たちは続くパリでの場面で知ることになる。パリに戻ることを選べないのではない。もうそうなるように「決まって」いる。だから「選ぶこと」はできない。決断は、理性的な判断としてではなく、身体の、重心の水準においてなされる。私たちは、真理の決断を、朝日が昇りカップラーメンができるのと同じ自然さで受け止めることができるだろう。

3.
 映画の舞台は再びパリに戻る。真理とマリー゠ルーの間に結ばれた関係は、二人の間で閉じるのではなく、「自由の庭」へと、さらにはその外の世界へと開かれていく。ここに本作の賭けがある。
 そもそも映画は、介護施設でのマリー゠ルーの悪戦苦闘から始まったのだった。ユマニチュードを定着させたいマリー゠ルーは研修を急ピッチで進めるも、現場からは悲鳴の声が上がる。職員の待遇を改善しようと経営陣に交渉するが、簡単に聞き入れられない。ユマニチュードそのものにも疑念が向けられるようになる。その筆頭が、看護師のソフィー(マリー・ビュネル)である。苛立つマリー゠ルーは、ソフィーを侮辱する発言をしてしまう。精一杯やっているのに、何もかもうまくいかない。
 なぜうまくいかないのか。ユマニチュードの講義の後で、真理によって繰り広げられるもう一つの「講義」――資本主義をめぐる講義――がそのヒントとなるだろう。真理は、ホワイトボードに図を描きながら、資本主義の「構造」を説明していく(ちなみに「構造」の語をめぐっては日本語とフランス語の間に微妙なニュアンスの隔たりがある。最初、マリー゠ルーが「fonctionnement(作動の仕方)」と言ったのを、真理は「構造」と翻訳する。より抽象度の高い「構造」(あるいは「システム」)と言いかえることで、より大きな問題へと結びつけるのである。それをマリー゠ルーが再び「fonctionnement」の次元で引き受けていくことになる)。資本主義は、「今ここ」(=都市)が上手くいくために、「外部」から資源を収奪し「外部」へと問題を押しつけるシステムだ。「外部」とは、田舎、グローバル・サウス、貧民、そして自然を指す。資本主義は、次々と「外部」を発見、再編していくが、「外部」は無限ではない。さらなる問題は、民主主義やリベラルが、資本主義に「依存」し「一体化」しているという点にある。民主主義は、都市部でしか支持を得られない。「外部」に置かれた圧倒的多数が、自分たちを搾取し侮蔑するリベラルを憎悪するのは「当然」のことであるのだ。真理の声に力がこもる。真理の講義は、マリー゠ルーの課題を浮かび上がらせるとともに(彼女の苦境はリベラルの状況そのものだ)、こうした「構造」からの「抜け道」――より正確には、「fonctionnement」の別の可能性と言うべきだろう――を想像することを可能にする。
 では、別の可能性とは何か。それは、足裏マッサージをしながら真理が口にした「力を抜いた方がいい」という言葉に集約されているように思う。パリに戻った後のミーティングで、マリー゠ルーはソフィーに謝罪をする。そして研修を年3回から年2回に減らすことを宣言。しかしそれはユマニチュード断念の敗北宣言ではない。ユマニチュードへの執着を緩め、力を抜くこと。それによって「遊び」が生まれ、物事がうまく回り始める。ユマニチュード(=人間らしさ)が取り戻されていく。入居者家族へのインタビューの催し「ヴァネッサの部屋」に職員を登場させることで、職員間の回路が立ち上がる。そして外部の支援に頼ったカフェの運営が、外との回路を作り出していく。それにつれて経営者側の視線も変わっていくだろう。
 一連の試みの核をなすのが、アーティスト・イン・レジデンスとして施設に携わることになった真理のアトリエである。真理は、素足で芝生を歩く、互いの足裏をマッサージしあうといった「ワーク」を作り出していく。それは、二人の間で築かれたコミュニケーションを施設全体へと広げる試みでもある。介護士と入居者という境界を越えて、身体のコミュニケーションが生まれていく(そもそも足裏マッサージは、本作のワークショップの指導を担う砂連尾理が、東日本大震災の被災者やダウン症の人々と作り上げた『猿とモルターレ』という作品に由来しているという)。他方で、真理は『近づいて見れば、誰もまともな者はいない』での吾朗のクレジットを「俳優」から「共同演出」へと変更。演出家としての縛りを緩めることになる。そして、すべてのラインが中庭での上演で交錯することになるだろう。文字通りの「転倒」が、様々な関係の「転倒」を引き起こしていく。中庭は「自由の庭」という名にふさわしい、自由な遊びの空間となる。真理とマリー゠ルーの軌跡が、様々な人々の軌跡と混じり合い、「fonctionnement」の別の可能性が軽やかに描き出される。かくして見る者の心とからだを揺さぶる、3時間16分は幕を閉じる。

4.
 あらためて『悪は存在しない』と比べると、両作が残す余韻は異なっているように思う。『悪は存在しない』は、余白に満ちた構成で、見る者に多くの疑問符を残しつつ終わる。ゆえに、私たちは様々に「想像」を働かせる。対して、『急に具合が悪くなる』では、様々な要素が緊密に結び合わされて、圧倒的なクライマックスへと至る。両作が規模も性質も異なる作品であることを承知で、あえて言うならば、『急に具合が悪くなる』は力が入り過ぎているとも言えるかもしれない。力を抜いて「遊び」を作ろうとする映画自体に、やや力が入り過ぎているのではないか。たとえば、「ヴァネッサの部屋」に職員が登場するくだりは、もちろん感動的であるものの、若い介護士のジブリル(ガブリエル・ダマニ)やソフィーから余白を奪う面もありはしまいか。夜の中庭でラップを歌うジブリルの姿が物語に回収されてしまうような......。
 いや、力みすぎているのは、緊密な作動ぶりを必死に記述してきたこの文章の方かもしれない(とはいえ、それもまた必要な作業であったと思う)。『急に具合が悪くなる』は、やはり遊びと余白の映画でもあるのだ。たとえば、マリー゠ルーが智樹と雨宿りしながら、葉っぱを見つめる時間。智樹の存在は、様々な境界を攪乱しながら抜け道を描き出していく。だからこそ彼の存在が二人をつないだのだ。
still11_急に具合が悪くなる.jpg そして、鳥。ティーチイン後の河岸での会話が一息つく頃、空から鳥の落とし物が降ってくる。二人の出会いを祝福(?)するかのように。真理は、留学の最初の日にも同じ目に遭ったのだという。もしかしたら真理と鳥の間には何かつながりがあるのかもしれない。「マリ」は「トリ」と韻を踏んでいるではないか。ユマニチュードの講義で、真理がマリー゠ルーを抱きしめるとき、その手の形が鳥の翼のようにも見えてくる。穿ちすぎだろうか。とはいえ、さして突飛な見方というわけではないとも思う。濱口作品では、しばしば人物は動物と結びつけられてきたのだから。『不気味なものの肌に触れる』(2013)のポリプテレス、『寝ても覚めても』のバク、『ドライブ・マイ・カー』のやつめうなぎ(木下千花の論考「やつめうなぎ的思考」を参照)、『悪は存在しない』の鹿など様々な例が思い浮かぶ。動物ということなら、本作には動物の指人形や、猫のレオもいるではないか。
 とはいえ、ここではそこに過度な意味を読み込むことは慎んで、鳥たちに余白を、遊びを残してやりたいと思う。「マリ」と「トリ」が韻を踏んでいること自体、もしかしたら駄洒落゠遊びなのではないか。真理とマリー゠ルーがタバコを共にした後で、カメラが夜明けの空へとパンするとき、鳥の鳴き声が聞こえていた。その後、目を覚ました真理の部屋に一羽の鳩が舞い込んでくる。その鳩を腕に載せて、空へと放つ。とても美しい場面である。「自由の庭」の中庭には、たくさんの鳥たちがいるのだ。京都でもまた、鳥たちの声が聞こえる(夜明けの場面では、日が昇るに連れて、虫の音が鳥の声に変わり、セミの鳴き声へと引き継がれる)。
 鳥たちは、地上の物語に寄り添いつつ、それとは異なる高さを、「遊び」を作り出すとも言える。この映画は、パリの街並みをとらえたショットに始まっていた。一羽の鳥が画面を横切る。続くショットで、カメラは塀沿いに下降しながら「自由の庭」に降りていく。鳥は最初からこの映画とともにあったのだ。そういえば、真理とマリー゠ルーがセーヌ沿いで歩くシーン、落とし物の前のショットは、俯瞰のロングショットだった。あれは二人を狙う鳥の眼差しだったのだろうか。映画の終盤、丹波の山を見下ろすショットがあったのも思い出される。そして映画のラストで、再び落とし物が降ってくる。中庭を俯瞰でとらえるカメラはパンをして、塀の向こうの街並みをとらえる。木から一羽の鳥が飛び立つ。その瞬間、映画は終わりを迎える。『急に具合が悪くなる』は、鳥に始まり鳥に終わる映画であったのだ。唐突ながら、最後に空想を一つ。原作の219頁、磯野からの第10便の後に、鳥の写真が載っている。そこには、「打算ではたどりつけない場所がある」というキャプションが添えられている。そう、最後に飛び立ったあの鳥は、きっとこの鳥なのだ。


角井誠(すみい・まこと)
映画研究・批評。早稲田大学文学学術院教授。共著に『映画論の冒険者たち』(東京大学出版会、2021年)、『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』(フィルムアート社、2022年)、訳書に『彼自身によるロベール・ブレッソン インタビュー 1943-1983』(法政大学出版局、2019年)など。


『急に具合が悪くなる』
監督:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
出演:ヴィルジニー・エフィラ 岡本多緒 長塚京三 黒崎煌代
製作:Cinéfrance Studios, オフィス・シロウズ, ビターズ・エンド, Heimatfilm, Tarantula
配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作 
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濱口竜介監督のインタビューは近日公開予定です。