『オークストリートの異変』デヴィッド・ロバート・ミッチェル
結城秀勇
[ cinema ]
見ている間ずっと『アンダー・ザ・シルバーレイク』のときに書いたことをぼんやり思い出していたのだが、最後まで見て、やっぱそうじゃん、となった。よくこの題材でそこまでいくね、と。
繰り返しになるが、デヴィッド・ロバート・ミッチェルは「欲望」を描き続けている作家だ。オークストリートという界隈がまるごと恐竜が住んでる時代にタイムスリップな本作で、どんな欲望がクロースアップされるかと言えば、もちろん恐竜たちの食欲だ。殺意や憎悪、あるいは呪いのようなシステムよりも、むき出しの食欲のほうがよほどおぞましい。なぜなら、それはある意味無関心にも見えるからだ。恐竜に襲われることに特に理由はないし、食われる食われないの境目も、たまたま、以外にとくにない。居間でそれぞれ東西南北に陣取って行われる家族会議の場面でとりわけ印象に残るスプリット・ディオプター(前景と後景、別々の焦点に同時にピントを合わせる技法をこう呼ぶと初めて知ったのだが、なんだか恐竜の名前みたいだ)は、いったい誰がなにを見てんのよ、恐竜目線なの?という気にさせるのだが、同じ技法が、恐竜の大群ラッシュを避けるために飛び込んだその辺の自動車の後部座席で生き残ったことを喜び抱き合う夫婦と、おそらくその車の持ち主であったのだろう運転席の死んだ女性を同時に見せる。やっと家族合流できてよかったね、うちへ帰ろう的な主人公家族と、大型肉食恐竜に追われる若者の一群や道端に転がる食いかけの死体を同時に見せる。
正直、こんなにもっと食いごたえのありそうなサイズの被食者がふんだんにいる環境で、肉食恐竜が執拗に人間を食おうとするものなのかはわからない。でもそれは人間だって同じことで、環境に適応する時間があればみんなもっとそれなりに賢く振る舞ったのかもしれない。たぶんそこがこの映画のいいところで、恐竜たちの食欲が全面展開しつつも人間たちの食欲が問題にならないところで話が終わる(電気も水道もなく、最後のミルクも飲み干した彼らは、飲み水を確保することなく幾日も生き残ることはできないだろう)。ほら人間だって追い詰められればこんなにおぞましい選択をしちゃうんですよ、みたいな話にはならない。ミッチェル作品の「欲望」は、こうしたいと望む選択をするかしないか、みたいなこととは根本的に別物だからだ。ミッチェルは欲望と意志を混同しない。問題なのは欲望"への"意志なのだ。
なぜ食われるのは私ではなく他の誰かなのか。なぜ災難に見舞われるのがこのたかだか直径2、3kmくらいの地域で、他の場所ではないのか。そこに理由はない。スプリット・ディオプターの狂った遠近法の中で、ある者は死に、ある者は生き延びる。そこにあるのは理由ではなく、ただの誤差だ。その誤差がこの作品を限りなくミッチェル的なものに変える。なぜこの映画の舞台は現代ではなく1982年なのか?長女オードリー(メイジー・ステラ)が信奉するカール・セーガンの言葉通りにワームホールで現在(1982年)に帰ってくるという筋書き的な説明以上に説得力があると思われるのは、この『ジュラシック・パーク』(1993)以前の世界では誰もヴェロキラプトルのことなど知らないからだ。誰も恐竜の名前を呼ばないし、恐竜に羽毛が生えていることをまだみんな知らないはずなのに誰も驚かない(わざわざ当時の図鑑を本棚から出して読んだのに!)。ブラキオサウルスもふもふじゃん、と現代の我々以上に驚愕してもよさそうなものだが、彼らは代わりに、うわ交尾してるーとほのぼのする。
そしてもうひとつの誤差。なぜ彼らは時空断裂が起こった瞬間ではなく、その20分前に帰ってくるのか。繰り返すように、そこに理由はなく、ただの誤差だ。それがこの映画を、『ローラ殺人事件』(オットー・プレミンジャー、1944)や『デジャヴ』(トニー・スコット、2006)のような、「すでに死んだ人間を救おうとする」映画の系譜に連ねる。もちろんそこに『アンダー・ザ・シルバーレイク』を加えてもいいだろう。大切な原稿が眠る水没した地下室と、「細かいことはわからないがなんとかなるだろう」しか言わない父親と、「助けてママ!」しか言わない弟と、弟にとってのヒロインになり得た転校生とただの友情以上の絆を築いたように見える姉と、そのすべてを抱きしめるにはこの誤差こそが必要だったのだ。