『A Window of Memories』清原惟
中村修七
[ cinema ]
『A Window of Memories』は、多孔質の映画だ。少し長いタイトルであるため『窓メモ』と略されているようなので以下ではそのように略すが、言ってみれば、『窓メモ』は、ポコポコと孔の空いたスポンジに似ている。この映画における孔とは、まずはタイトルにあるように窓なのだが、そればかりではない。2人の俳優がテクストを朗読するガランとした部屋には、大きな開口部のある窓があるばかりでなく、足元にはポッカリと床下の空間が開いているし、2階へとつながる階段も姿を見せている。また、清原の2人の祖母の人生を語るテクストはあくまでも断片的であり、語られることのない欠落を抱えている。さらに、映画の全編は、清原と2人の祖母がテクストを作り上げる姿を捉えた映像、祖母たちの生活を描く映像、2人の俳優がテクストを朗読する映像と大きく3つに分けられる映像が緩やかに繋がれており、シーンとシーンの間にも開口部が潜んでいる。『窓メモ』を見ていて感じるのは、いくつもの孔を風がそよそよと吹き抜けているかのような心地よさだ。また、いくつもの孔を通して、記憶が内から外に開かれ、また、外から内に記憶を誘い込むかのような印象を受ける。
ヴァルター・ベンヤミンはアーシャ・ラツィスと共作したエッセイ「ナポリ」(1925)において、「多孔性」という言葉を用いていた。そこで記されるナポリという都市空間の特徴は、隙間があり、流動的であって永続性を持たず、別のものとの関係で異なる姿を見せ、確定的な姿を現すことがないといったものだ。こうした特徴は、記憶にも当てはまる。それは、記憶も多孔質だからだろう。そのため、記憶を扱った『窓メモ』が多孔質なものとなるのは当然のことかもしれない。
『窓メモ』の製作にあたり、清原は、父方の祖母と母方の祖母の2人から話を聞き、話をまとめたテクストを2人の祖母とともに推敲して作り上げた。そして、そのテクストが2人の俳優によって読み上げられる。2人の老齢の女性の人生をめぐるテクストは孫娘とともに作られたプライベートな性格を持つものだが、そのテクストが若い世代の2人の女性によって読み上げられることによって開かれていく。『窓メモ』を見て、さらにパンフレットを読むと、映画の製作を通して清原と2人の祖母との関係が変わったことがうかがわれる。清原は2人の祖母の人生をそれまでよりもよく知るようになり、2人の祖母も孫娘のことをそれまでよりもよく知るようになっただろう。
清原が2人の祖母と作ったテクストから浮かび上がるのは、20世紀を生きた2人の女性の人生だ。それは、大文字の歴史には記されない小さな生だと言える。その人生からは、家父長制のもとで2人の祖母が悔しい思いを何度も味わったことも見えてくる。老齢の女性の人生をめぐるテクストが若い女性によって読み上げられる『窓メモ』には、女性ばかりが登場しており、男性はまったく登場しない。このように作られた『窓メモ』は、現代的な問題意識を持つ、優れた女性映画だ。また、この作品に家父長制への批判と抵抗の意志が込められていることは指摘しておかなければならないことだと思う。
『窓メモ』は、テクストの朗読が大きな部分を占めるという点では草野なつかの『王国(あるいはその家について)』(2018)と近いし、ある人物について書かれたテクストが朗読されるという点では小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)と近いと言えるかもしれない。ただし、『窓メモ』は、『王国』のようにテクストを読み上げる俳優をじっくりと繰り返し見つめることに重点が置かれているわけではないし、『二重のまち』のように記憶の継承に重点が置かれているわけでは必ずしもない。『窓メモ』と清原の過去作の関係では、朗読のシーンでは一つの建物の中で2人の人物の人生を回想するテクストが交互に読み上げられるわけで、一つの建物の中で二つの物語が交互に進行するという点で『わたしたちの家』(2017)との共通点を指摘できるだろう。また、登場する人物が別の人物の記憶に触れるという点では、世代の異なる3人の女性が多摩ニュータウンに暮らした人々の記憶に触れる『すべての夜を思い出す』(2022)とも繋がっている。
『窓メモ』の朗読のシーンが撮影されたのはシェアハウスの共用部分なのだというが、たぶん全ての構図で一部に窓が映りこんでいる。撮影時期は冬であるため、日が沈むのは早く、窓を通して室内に射し込む光は、時間が経つにつれて弱まっていき、室内も暗くなっていく。朗読自体も、時間が進むにつれて変化していく。朗読のシーンで最後に読み上げられるのは、母方の祖母が幼かった頃に人から見つめられていた時の話だ。新しく仕立ててもらった黄色いワンピースを着て夕方に外を歩いていたところ、大人の女性から見つめられていることに彼女は気付いた。彼女は、自分が着ているワンピースをその女性が作ったのだと思ったが、言葉を交わすことなくその場から遠ざかった。しばらくして彼女が振り返ってみると、なおもその女性は彼女を見つめていたという。その部分の朗読がなされるショットでは、日がすっかり沈んでいるため暗くなった部屋の中で、シルエットとして女性の横顔が映し出される。もはや彼女は手元のテクストに目を落とすことなく言葉を発している。暗い画面から響いてくる声がストンと観客に入ってくるかのような不思議なショットだ。その時、黄色いワンピースを着た少女の映像が見えてくるように思ったのだが、これは錯覚だろうか。
「窓」とは、言うまでもなく、映画館のスクリーンのことでもある。映画館の観客は、スクリーンという「窓」を通して他者の記憶に触れ、自身の記憶も喚起される。清原は、『窓メモ』を見た何人もの人から、自分の記憶や親しい人との思い出について話をされたという。僕自身は、祖母のことをあれやこれやと思い出した。こうしたことが起こるのは、多孔質な映画である『窓メモ』が観客の記憶に触れてそれを吸収するように作用するからかもしれない。冒頭でスポンジのようだと書いたが、その比喩をさらに続けて言うと、『窓メモ』は、見られることによって観客たちの記憶を吸収し、さらに大きく膨らんでいくだろう。
【関連記事】