彼女たちのアトリエ――深田晃司『ナギダイアリー』をめぐって
角井誠
[ cinema ]
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映画の舞台となるのは、岡山県勝田郡奈義町。正確には、その奈義町をモデルとした架空の町「ナギ」。東京で建築家として働く友梨(石橋静河)が、別れた夫の姉で彫刻家の寄子(松たか子)を訪ねて来る。彫刻のモデルを務めるためだ。日めくりカレンダーで日付が示されていく。友梨がナギで過ごす、3月13日から21日までの9日間の「ダイアリー」。そこには、寄子の友人で町役場に勤める好浩(松山ケンイチ)や、好浩の息子の春樹(川口和空)とその友人の圭太(藤原聖)といった、奈義に暮らす人物たちとの交流も描き込まれていく。
冒頭、町中の車道を自衛隊の車輌が駆け抜けていく。ナギ/奈義には、自衛隊の駐屯地がある。射撃訓練の音が響いてくる。友梨は好浩、春樹、圭太らと連れだって、野山を散策したり、美術館を訪れたりする。朝霧の立ちこめる野山での圭太との散策、滝での好浩とのやりとり(台湾語で歌う石橋静河!)、荒川修作+マドリン・ギンズの作品《遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体》での春樹との会話の場面......。画面を通して、ナギ/奈義という町の魅力がぐっと立ち上がってくる。
ただし、『ナギダイアリー』は、ナギ/奈義という町そのものを描く映画というわけではない。寄子や好浩らより年長の土地の人物はほとんど登場しないし、土地の言葉も聞こえてこない。この映画の核をなすのは、寄子が制作に打ち込むアトリエという空間であり、そこで友梨と寄子が過ごす時間だ(寄子と友梨が一緒に町を歩くシーンはほとんどない)。寄子は昼間、仕事をしているので、二人がアトリエでともに過ごすのは、大抵、夜である。アトリエでの時間は、日付を超えて似通い、溶け合っていくかのようだ。ナギ/奈義にありながら、そこから切り離されたような空間。カレンダーの日付の中にありながら、そこからはみ出したような時間。そんな不思議な時空間で繰り広げられる親密なやりとりにこそ『ナギダイアリー』という映画の魅力があるだろう。
寄子のアトリエは、母屋の横の納屋にある。それは彼女にとって、自分を偽ることなく、自分らしくあれる隠れ家のような空間かもしれない。性的マイノリティである彼女は、外では自分を偽らざるをえない。「ここじゃまあみんな隠しているしね。私もだけど」と寄子はこぼす。そこはまた、昼夜気にすることなく、制作に打ち込むことのできる空間でもある。ただし寄子にとって、制作は一人きりの孤高な作業というわけではない。寄子はたえず会話をしながら作業を進めていく。「話しながら、その人の人柄とか掴んで彫りたいからね」と彼女は言う。デッサンを描くときも、粘土を叩いたり彫ったりするときも、3年寝かしたクスノキを切ったり彫ったりするときも、寄子は友梨と会話を続ける。彼女は、彫刻とは「モデルと木と私の共同制作」であると言う。彫刻は、彫刻家とモデル、素材の間での会話であり、共同作業であるのだ。
とはいえ、アトリエは二人だけの空間ではない。まず防災無線から聞こえる声がある。実弾射撃訓練の予告、町での様々な催し、そして住人の訃報など、ナギに関わる様々な情報が読み上げられる。防災無線は、アトリエをナギの町とつなげる役割を果たしているだろう。やがて、その声の主が好浩であることが明らかになる。それだけではない。アトリエには、彫像たちがいる。初めてアトリエに足を踏み入れたとき、友梨はスチール製のラックの上に無造作に飾られた彫像たちを眺める(宮城県で創作を続ける吉田愛美の作品は、この映画の大事な登場人物だ)。そして、別れた夫――雅人――の像に目をとめる。像を隠そうとする寄子を遮って、友梨は雅人の像、彼女と出会う前の学生時代の雅人の像をじっと見つめる。カメラはゆっくりと像に向かって前進する。「こんな顔してた気がする。というか、ずっとこういう顔だったら別れなかったかも」とこぼす友梨。モデルとの対話の中で作られた彫像は、その分身として生きている、生き続けているかのようだ。この映画では、複製が複製以上のものとして存在感を、生命を、魂をもっている。だからデッサンに恋するということも起こるのだ(とはいえ、それが「気持ち悪い」には違いないけれど......)。デッサンや彫像は映画とも似ている。カメラ・オブスクラは、デッサンや彫像を映画と接続する装置と言えるだろう(アトリエ自体が、一つのカメラ・オブスクラ=暗い部屋であるとも言える)。そして、アトリエにある最も重要な彫像は、壁際の台の上にさりげなく置かれた一人の女性の彫像である。その彫像は、映画中盤で、今はなき早苗(藤間爽子)のものであることが明かされる。かつて寄子が思いを寄せた女性であり、好浩の妻であり、春樹の母親である早苗の彫像。アトリエには、雅人や早苗も一緒にいるのだ。
ここにいる人いない人、生きている人死んでいる人。それらが共存し合う時空が、緻密なカット割りによって彫り上げられる。二日目の夜の場面を思い出してみよう。カメラは、ブルーのカーディガンを着て背筋を伸ばしてポーズを取る友梨――画面の右手を向いている――からパンをして、制作中の粘土像をとらえる。作業する寄子の手。ふと防災無線から音楽が流れてくる。「誰かが死んだ」と寄子が言う。それは、訃報を告げる音楽であるらしい。亡くなったのは、林業を営む「山岸のおじさん」。雅人の像の木材をくれた人物だという。そこで雅人の像が映され、それを見つめる友梨のショットが続く。このとき、カメラは寄子と友梨とを結ぶイマジナリーラインの反対側に移動して、雅人の像の位置から友梨をとらえる。続く寄子のショットも、雅人の像がある側から撮られている。寄子は「お墓」の話を始める。両親から、雅人はうちのお墓に入れるが、寄子は「女の子だから入れない」と言われたという思い出。やや図式的な台詞を、松たか子は黙々と作業しながら自分ごとのようにさらりと語ってみせる。雅人をめぐる会話が続く間、カメラは像の側にとどまっている。まるで三人の間で会話が行われているかのように。しかし話題が防災無線の声に移ると、カメラは再びイマジナリーラインの反対側に移って、寄子と友梨を横からとらえる。棚に置かれた防災無線が見える。ここで声の主が好浩であることが明かされる。好浩も場面に加わるかのようだ。さらに、寄子が友梨の後ろに回って背後を確認するとき、再びカメラはラインを超える。そのとき、画面の片隅に早苗の像がとらえられる。二人のやりとりを彼女はずっと見ていたのだ。寄子と友梨の間で繰り広げられるこの場面は、じつは、雅人、好浩、早苗たちも含んだ5人の場面であったのだ。翌日の夜、作業が一区切りついた二人がアトリエでお酒を酌み交わすときも、彫像たちがインサートされ、寄子は防災無線に向かって「好浩、うるせーぞ」と叫ぶ。そこに存在する人も不在の人も、生者も死者もともにある映画的空間。そこでは、こことよそ、現在と過去、現実と空想とが重なり合っていく。
だから、この映画では死者が登場したりもするのだ。目覚ましが鳴り、雨が降る。時空がぐにゃりと歪み、今はいない人がそこにいる。取り込んだ洗濯物を干しながら、淡々と言葉を交わす寄子と早苗。思いがけぬ来訪は、寄子を静かに動揺させるだろう。同じ日、友梨もまた動揺を経験する。好浩に連れられて出かけた土手焼きで煙に巻き込まれた後、彼女はふと廃業した牛舎に迷い込む。好浩は、ナギはもともと厳しい風が吹く原野で酪農をする人が多かったこと(「牛は飛びませんから」)、ゆえに「いろいろなもの」を引き受けざるをえなかったことを淡々と説明する。「そのお陰で美術館が建つんですから」という彼の言葉には、地元の人間の複雑な心境が窺える。雅人のことを「東京に逃げていった」者と呼ぶ好浩の内には、様々な屈折があるに違いない(友梨と土地をつなぐ重要な役どころであるだけに、できればその屈折をもっと描いて欲しかったとも思う)。朽ち果てた空っぽの牛舎は、ナギのもう一つの顔を垣間見せるほとんど唯一の場面として際立っている。友梨は、ただ「何かすみません」と謝るしかできない。その後、帰宅した友梨は粘土像の顔が崩れているのを見つけて驚くことになる。寄子によって壊されたその像は、友梨の眼には動揺する自分自身の姿に見えたかもしれない。
かくして友梨の彫像制作はやり直しとなる。夜、再びアトリエで作業が始まる。友梨はいつものブルーのカーディガンでなく、普段着のフリースを着て、ややリラックスした姿勢でポーズをとる。彼女は、少し躊躇いながら、寄子に会いに来た理由を打ち明ける。施主の要求に追われるうち自分の作りたいものを見失っていた彼女にとって、「孤独に見えるのに、誰に頼まれるでもなく彫刻を作りつづける」寄子が「とても強く」見えたのだという。ゆっくりと言葉を継ぐ石橋静河の佇まいが素晴らしい。寄子は「私だって強くないよ」と受けて、「孤独かもしれないけど、孤立はしてないだけ」だと言葉をつなぐ。そもそも彫刻は「モデルと木と私の共同制作」であって、自分は「機織り機」のようなものでしかない。デッサンを続けながら彼女は言う。「孤立しちゃダメ。私は友梨さんを孤立させないから」。寄子の言葉を聞くうち、友梨の眼に思わず涙が浮かぶ。正確には、「何? 泣いてんの?」と問いかける寄子の言葉によって、私たち観客は彼女が泣いていることを知る。寄子の言葉は、思わず涙を流した(かもしれない)観客に向けられたものであるかのようだ。孤独な者が孤独なまま――孤立することなく――つながり合う、という寄子の創作のあり方、そして生き方。それは、友梨だけでなく、見る者の心も静かに打つ。寄子は、涙を拭く友梨を描き続ける。それは確かに「いい顔」なのだ。
しかし映画はそこで終わらない。終盤、春樹と圭太が行動を起こし、様々な仕方で現実と折り合いを付けながら生きる大人たちに、剥き出しの衝動を突きつけることになるだろう。すべてを断ち切って自分たちだけで生きたいと望む、純粋で切実な思い。それは、友梨、寄子、好浩らを動揺させずにはおかない。二人の試みの顛末にはここでは触れないでおく。波乱の一夜が明けてまた朝が来る。防災無線が聞こえる。そして映画はやはりアトリエで幕を閉じることになるだろう。彼女たちの――そして彼らの「ダイアリー」は続いていくのだ。
角井誠(すみい・まこと)
映画研究・批評。早稲田大学文学学術院教授。共著に『映画論の冒険者たち』(東京大学出版会、2021年)、『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』(フィルムアート社、2022年)、訳書に『彼自身によるロベール・ブレッソン インタビュー 1943-1983』(法政大学出版局、2019年)など。
『ナギダイアイリー』全国公開中