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October 15, 2021

『光の消える前に』アリ・エッサフィ
隈元博樹

[ cinema ]

yidff2021-catalog.jpg 冒頭から次々とコラージュされていく写真やフィルム、それからテレビ映像などによるフッテージ。しかしそれらがモロッコの過去を捉えた断片であることはわかるものの、どういった基準の下に抜粋された映像なのか、あるいはコラージュによってどんな効果がもたらされるのかに最初は戸惑ってしまう。しかも本編の語り主のひとりであるアブデラジズ・トリバクは、なぜ動画ではなく静止画や声だけでしか登場しないのか。ただしそのことは、当時のモロッコ映画センターが製作した国策のニュースフィルムを背景に、前衛の芸術家たちが起こした1970年代の民主主義運動について語るトリバクの証言や、反体制雑誌におけるユニークなビジュアルたち、そしてモスタファ・デルカウイが制作した『いくつかの無意味な出来事について』(1974)などのフッテージを通して、今も続く芸術文化に講じた抑圧の歴史としておもむろに立ち上がってくる。また上映後のQ&Aで監督のアリ・エッサフィが繰り返し口にする抑圧の二文字は、この映画を象徴するひとつのテーマであり、自国のアーカイヴ渉猟にまつわる多くの労苦、そしてひとつの歴史であることを如実に物語っている。
 つまりこうした背景を踏まえた上で、コラージュされていく映像や音声の断片を拾い集めていくと、目の前に提示される映像や音声そのものが、言わば抑圧に対する抵抗の集積にさえ見えてくる。モロッコ映画についての街頭インタヴューにはじまり、忘れ去られつつある自国の映画作家たちが制作したフィルムの一場面、制作現場のメイキング、その他モロッコの街並みを捉えた何の変哲もないホームムービーらしき映像などなど。また映像の一部には「緑の行進」を映し出したものもあるのだが、むしろ国家にとって直接的に「不都合なもの」というよりは、たとえ検閲や妨害によって全体が失われてしまったとしても、もしくはそれがたった数分の映像としてしか残されなかったとしても、映像どうしの連なりによってここに「残された/守られた」ことの意義を示唆している。サンプリングとも言うべき一定の間隔でつながれた記録の断片を通して立ち上がる、大きな記憶=抵抗としてのモンタージュ。そのことに賭けたアリ・エッサフィのただならぬ熱量がひしと伝わってくるのだ。
 思うに本作が提示するモロッコの文化的背景は、小特集「進化するベトナム映画」においてベトナム映画界の過去と現在(詳しくは「NOBODY issue46」を参照)ともリンクする。国家による内外の紛争や戦争、あるいは国が設置した当局による検閲や妨害といったさまざまな抑圧によって表現の自由が奪われ、さらにはアーカイヴの概念すらも歪められてしまうといった状況。だからこそ私たちは、二度と同じ過ちを繰り返さないために芸術文化を失わせない/残していくのだと。もちろんアーカイヴにおいては、高温多湿をはじめとした国土特有の気候から映画のメディアを守ること、あるいは保存に適した低温低湿の環境を配備することが大前提ではある。ただ、そうしたモノに対する姿勢だけでなく、不都合なものに蓋を被せ、排除や妨害をもたらす権力から守り抜くこともアーカイヴの重要な使命である。こうした意思からもアーカイヴは以前にも増して重要視されているのであり、各国のアーキヴィストや作家たちは映画フィルムやデジタル素材、あるいはノンフィルムと呼ばれる映画資料の保存に絶えず邁進し続けなければならないのだ。
 『光の消える前に』は、以上のようなアーカイヴの諸問題に切り込みつつ、わずかながらも残されたものたちを拾い集め、そしてつなぎ合わせることで、ふたたび記憶の息吹を与え直す映画なのだと思う。同時にそれはモロッコの作家たちが辿った抑圧と抵抗の姿を捉えるだけでなく、彼方へと消されつつある複数の声として呼び戻すことなのだ。だからこのフィルムは単なる記録にとどまらず、私たちの記憶としてたしかに焼き付けられるのだろう。

山形国際ドキュメンタリー映画祭2021にて上映

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