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May 28, 2022

『夜を走る』佐向大
鈴木並木

[ cinema ]

iOS の画像2.jpeg 我慢しきれずにオンライン試写で見てしまった映画を、公開を待って劇場で再見する。洗車機の門を通って映画の中へと入っていく冒頭、自宅のパソコンでは感じられなかったささくれだった音響に揺さぶられながら、そういえば『ランニング・オン・エンプティ』(2010)もこうした武骨な音の響きの映画だったんじゃなかったかなと、細部はまったく思い出せぬまま、感覚だけが生々しくよみがえってくる。
 見ているあいだは2時間あちこちに引っ張り回されるような体験なのに、見終えてしまうとそれなりにすとんと腑に落ちる。車と女と銃と犯罪。要はひとつの死体をきっかけに何人かの人生に裂け目ができて、狂っていく話じゃないか、と。社用車を走らせる毎日を捨てて自分の足で歩いて踊る生活へと移行した主人公。万事を軽々とこなせていたはずが、すべてにどうしようもなく疲弊してしまう同僚。着せられた濡れ衣を脱ぐ気力もなくなった上司。かぶっていた体面の仮面を剥ぎ取られた社長。
 こういう映画は、このあとどこに行くんだろうか。映画館を出たら、配信サイトや絶滅寸前のレンタル・ショップで、ジャンルや傾向やタグによって区切られたスペースに居場所を見つけないといけない。「犯罪映画」? 「フィルムノワール」? 「ファミリー」?(まさか!) 「人間ドラマ」?(そんなもん、なんだって当てはまってしまう) 「サイコスリラー」?(そうかも)etc, etc。ただし、どこに押し込むにしても、はみ出すものがあまりにも多すぎる。使えなかったパズルのピースみたいに手元に残った部分が、見ているわたしたちの笑いを誘う仕掛けになっている。ここ、笑っていいんだろうか、との戸惑いを暗闇の中で気まずく共有するのも、『夜を走る』を劇場で見る大きな楽しみのひとつだ。
 洗車機の門から中に入り、関東平野のどことは知れぬあちこちに連れ回され、あっけにとられたり冷や汗をかいたり笑ったり。そして2時間後、また洗車機の門を通って映画の外に出る。そのときにはわたしたちも、見る前とは違う別人になっているはずなのだ。

 さて、ここからは別人になってしまったわたしが、陰謀論めいた仮説を提示したいと思う。この映画のすべての要素が撮影監督・渡邉寿岳のいままでの仕事とつながっているのではないかとの仮説、いわば「渡邉寿岳の映画史」。
 渡邉が本作に起用された経緯は、パンフレット所収の渡邉のインタビューに書かれている。草野なつか『王国(あるいはその家について)』(2019)で渡邉との仕事を経験していた本作の主演・足立智充が、佐向監督に推薦したのだそうだ。なるほど、そうして見ると、簡素な装置の室内で延々と繰り返される演劇のリハーサルめいた会話を中心とした『王国(あるいはその家について)』での経験が、『夜を走る』のニューライフデザイン研究所の場面にも大いに生かされているように思える。新興宗教とも自己啓発セミナーともつかないこの場面はまた、宮崎大祐『VIDEOPHOBIA』(2019)での被害者の会を連想させるし、そういえば同作にはワークショップ場面もあった。折々で聞こえてくる、空気を乱暴に引き裂くようなエレキ・ギターには、やはりエレキ・ギターの音が印象的だった藤川史人『いさなとり』(2015)を想起するし、『夜を走る』で一箇所だけ画調が異なっているあそこも、『いさなとり』で試したやり方なのではないか......などなど、トイレットペーパーを手繰り出すように、渡邉寿岳がいままでに手掛けてきた映像の記憶が次々によみがえってくる。
 もっと掘り進んでみる。『ランニング・オン・エンプティ』も車が運転される映画だったけれど、『夜を走る』には、移動するものに対する渡邉の鋭い感覚が大きく寄与しているはずだ。色気と言ってもいい。たとえば「ふちがみとふなと」の演奏と、夜の川面を船ですべりながらそれを見る観客たちを撮った映像に、それは端的に現れている。船といえば、渡邉の武蔵野美術大学における卒業制作『かつて明日が』(2008)でも印象的な姿を残していて、などと深入りするとキリがないのでこのへんにしておくけれど、一言だけ。人間の姿が限りなく薄かった『かつて明日が』からは信じられないくらい、渡邉の人間に向ける目の確かさを感じさせるのが『夜を走る』で、と同時に、この映画のもうひとりの(もうひとつの)主役とも言える武蔵野金属のスクラップ工場の荒々しくて楽しげな重機の動きは、たしかに『かつて明日が』から一本の線でたどれるもののように見えてならない。
 こちらもパンフレットの渡邉の発言だが、武蔵野金属の社員たちは撮影に協力的で、積極的に重機を動かしてあれこれやって見せてくれたのだという。なんだか、土本典昭『ドキュメント 路上』(1964)のラスト・シーン、タクシーのアクロバティックな急発進と急停車の練習場面が、運転手たちの自発的なアイディアによるものだったというエピソードを思わせる話じゃないだろうか。

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