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December 30, 2022

『ケイコ 目を澄ませて』三宅唱
藤原徹平(建築家)

[ cinema ]
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私たちの街の映画、という存在がある。私たちの、というからにはこれは共同性を問題にしている。

ケイコにとって、ようやく辿り着いた家(戦火を経た街に誕生したボクシングジム)が、なくなる。
劇中、おそらく荒川と思われる大きな川と、荒川と交差する鉄道や高速道路が執拗に画面に切り取られ、眼前に現れる。

これは東京の物語なのだろうか?
そうではないだろう。東京タワーやスカイツリーなど東京らしさを表象するアイコンは丁寧に省かれる。

家のように大切に思われていた風景、戦争や災害や時代をしぶとく乗り越えてきた風景が、毎日世界中で壊されている。
壊された代わりに、真新しく拠り所がない風景の生産が、繰り返されている。
これは私たちの街の物語だ。

なぜ壊されるのか?
その理由すら確かに示されない。大した理由がなく、家は、失われて、思いつきのように新しい風景が立ち上がる。

新しく立ち上がる風景は悪意に満ちているのだろうか?いやそうではない。異なる言語すらもiPadがつなぎ、手話教本もAmazonですぐに届き、誰をもLEDが明るく照らし、優しく包み込む。すべからくスムーズだ。
しかしそれは、家からは、遠い。
共同性の根っこを喪失した世界であり、喪失を共有しているから優しいのかもしれない。

ジムがなくなるなんて、許せない。
確かケイコはそうノートに書いていた。
ケイコはシンプルだ。シンプルに共同性の喪失に動揺し、怒り、抵抗する。

そのケイコの姿に、私たちの心もかすかに、確実に、揺さぶられていたはずだ。

三宅唱は、現代の映画作家で誰よりも都市にカメラを向け続けている作家であろう。
劇映画で、荒川にカメラを向けたのは『THE COCKPIT』に続き2回目であると思うが、より確信をもって、劇中各所で都市という運動を描写する。

ケイコは荒川のほとりに居る。
ケイコが「家」と呼んだのは、ボクシングジムではなく、もしかすると荒川のことだったかもしれない。

団地が立ち並び、すごい勢いで鉄道と車が運動し、交錯する。ケイコは会長と、荒川のほとりで、丁寧に共同性の場を育ててきたことが短いショットの連続で示される。

映画の最後。ケイコは荒川のほとりで、再び走り始めた。

私たちはケイコと一緒に走ることができるのだろうか?

三宅唱がこの映画で描こうとするのは、共同性の喪失と抵抗という神話の序章である。

ケイコの強い意志のある顔と、荒川と都市が交錯し続ける永遠的な風景の対比は、神話性を喚起している。シネマでしか経験しえない物質性の満ちた時空間の経験。

荒川を巡る神話。
続いて紡がれる物語が、すでに待ち遠しい。そんな想いをもって映画館を出るのは久しぶりのことである。


全国ロードショー中

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