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May 11, 2025

ケリー・ライカート×オリヴィエ・アサイヤス対談 part3

[ cinema ]

 オリヴィエ・アサイヤスとケリー・ライカートがTalkhouse Podcastで行った対談を、3回に分けて日本語で公開している。最後のパート3では、映画における電話についての話題から、アサイヤスの『夏時間の庭』(2008年)や『パーソナル・ショッパー』(2016年)を中心に現代人の繋がりに関する意見が交わされるほか、ロベール・ブレッソン、サッシャ・ギトリといった名前も飛び出す。

リード文、翻訳:和久井亮

KR 編集室に入ったら、すべてのテイクを確認していますか? しばらくは単にフッテージを見るのでしょうか。

OA 1つの場面の素材をすべて見ます。あなたも同じだと思いますが、素材との関係は編集室に入るとまったく違うものになりますよね。

KR はい。

OA 現場で素晴らしいと思ったテイクが突然あまりよくないように見えたり、ほとんど注目していなかったテイクですごいことが起きていることに気づいて、これだ、と...

KR その通りですね。

OA 映画を組み立てていると、結局はほとんど選択肢がないように感じます。私の場合、2番目のテイクがないのが普通だからです。何かが起きているテイクが1つあり、他はすべて、つまらないとは言いませんが、あるテイクが持っているような特別な生気がなかったりします。

KR でも時には、あるテイクの一部だけを取り出すことも...

OA もちろんそうです。そのためにすべての素材を見ています。退屈なテイクの中でも突然、素晴らしい台詞、素晴らしい何かがあったりしますから。

KR あなたのカメラはずっと動いているので、それが事前の計画なしで繋がってしまうのが興味深いと思います。実際うまくいっているのですから。

OA 私は運動という考え方が好きで、それは映画の特異性とも関係があります。つまり、視点の変化という考え方が好きなんです。カメラ・オブスクラのような単一視点の考え方から離れるということですね。

KR でもブレッソンがお好きなんですよね。

OA ええ、でもブレッソンを崇拝しています。

KR 私もです。

OA でもブレッソンもカメラを動かしますよ。

KR その通りですね。

OA 彼はシンタクスにおいて非常に厳密です。とても洗練されたシンタクスがあります。

KR ええ。シンプルであるべきなのだと画面で示しているようです。彼が成し遂げたことはできて当然だ、というような...

OA ええ。でも違います。

KR まさに。「でも違います」ですね。

OA 私はある種、運動に魅了されているところがあります。変化の過程に魅了されているのです。1つのショットの中で特定の種類の変化が大きければ、それだけより映画的になるという考え方です。
 でも時にあなたの映画を見ると、私が感嘆するのはタイミングの感覚でもあります。あなたは物事が現実になるための時間を十分に与えていますよね。その自然の存在感にはとても詩的なものがあります。あなたのような時間の使い方は、私なら躊躇してしまってできないだろうと思います。私はこのようにエネルギーやスピードやあれやこれやに魅せられていますが、時にはあなたのような辛抱強さが持てればいいのにと思うんです。

KR でも、誰かと時を過ごしていて、電車が動いていたら、その場のスピードは...

OA ええ。

KR そのスピードで落ち着くこともできますよね。あなたはかなりこだわりとして...気付いたんですが、つまり、私も電話については色々と考えていたんです。学生たちにはいつも電話の小道具、電話らしい電話を見つけさせています。いつも映画の中の電話について話をしていて、たとえば電話の片側の1人だけを見せると、『ダイヤルMを廻せ!』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1954年)などのように、反対側に誰がいるのかが分からず、ミステリアスになりますよね。あるいはカメラが戻ってくる映画、やり取りの両側が見える場面なら、最重要の知識が使えるタイプなんだ、という...

OA その通りですね。

KR あるいは何百万回と見られるのが電話交換手です。誰かが中間にいて、やり取りが聞けない場合とか。ところで、『夏時間の庭』の母親です。彼女はすぐに電話機をいくつかもらいますよね。

OA ええ。彼女の嫌いな電話ですね。

KR 嫌いな電話です。あなたは電話にはかなりこだわりを持っていますよね。あなたは違いますが、多くの人は、自分の映画をある年までの特定の技術に限って作って...設計しているように思います。あなたはそれを受け入れていますね。

OA はい。過去10年、20年、25年ほどの世界で変化してきたものを見れば、それは私たちの繋がりに関係していると本当に思います。電話自体は重要ではありません。電話は小道具のようなもので、何でもないんです。重大なのは、脳の延長のようになっている巨大なデータバンクとの繋がりです。それはある種私たちのアイデンティティを変え、人間の経験を変えたわけで、目まいがするようなところがあると思います。

KR ええ、すべてを変えました。

OA だから、私がそういうものにこだわっているというだけではありません。私が求めたわけではないんです。

KR ええ。

OA ただ私たちの身に起こってしまったことで、必ずしもそれを求めたのではないわけです。

KR そうですね。

OA そしていまとなってはそれに対処していくしかありません。私たちが情報に対処するしかたや、手元にある追加の記憶に対処するしかたが、私たちを個人として定義づけてしまっていると思います。私たちはある種、自己を再創造するとは言いませんが、人間の経験を変えてしまうような何かをもとに、自己を再定義しなければならないのでしょう。だから、その意味では確かに魅了されていますし、その深みを表現する十分な方法を見つけられているかは分かりませんが、試みたことでした。

KR 私はそれについて、理屈抜きの強い感情を持っています。たとえばニューヨーク市で苛々させられるのは非常に簡単です。前を歩く人が電話を触っていたり、地下鉄駅から上っていて誰かが電話を触っていたりすると、すぐにそれと分かります。道を外れたところでいじれよ、どけよ、と。自分のスマートフォン操作はまったく気にならないんですけどね。

OA そうですよね。

KR ばっちり人の流れに合わせて歩いていて、誰の邪魔にもなっていないつもりなのですが。あなたの映画を見ていて、クリステン・ステュワートは電話を触っていて、中にはすぐ後ろの誰かも電話を触っている場面もあります。私はまず怒りや苛立ちを覚えますが、結局は取り残されていると感じます。その感情が起こるのは...テーブルを挟んだ誰かが電話をいじっている、というのは誰もが経験したことですよね。「私がここにいるのに、あなたは電話ばかり見て」という感じです。

OA ええ、ええ。

KR あなたの映画を見て受け取れるのも、絶え間ない繋がりの強迫的な衝動だと思います。そしてその孤独感も。

OA 孤独感、そうですね。

KR それに疎外感ですね。

OA 『パーソナル・ショッパー』は、都市の孤独感や渇望、そして何かの不在に悩むことについての映画として作っています。彼女の場合は兄の不在に悩んでいるわけですが、究極的には彼女も、私たちの誰もが何かの不在に悩んだり、苛立ったりしているのと同じように悩んでいるのです。私たちは、答えを与えてくれない社会に暮らしているのだと思います。自分が何をしているのか、なぜ、どのようにそれをしているのか、私たちの暮らす社会はどのように機能している、あるいは機能するべきなのか、そこに私たちはどう関わるべきなのか、といった答えのない問いとともに置き去りにされているようなものです。答えを与えられないままの何かが常にあるのです。共同体の感覚のそうした喪失があり、それは現代の経験の大きな部分を占めています。

KR ええ。あなたも言ったように、『夏時間の庭』の冒頭で、子どもたちは実家を出ているので、彼女に電話を3つもあげます。あまりに悲しいことで彼女はほしくないと言いますが、家の中で最も醜い物体と化してしまいます。ここで電話の欠如は、現代の新技術の導入よりもましなんですよね。

OA はい。

KR でも映画を終えるごとにAppleが大量の製品を送ってくるでしょう。

OA いやいや。

KR そうなんだと思いますが...。でも、あなたはそれを映画で伝えていますよね。大半の人はそれを避けていて、どうしたらいいか分からずにいるのだと思います。それをどう引き受けるかというのは、誰もが直面する問いだと思うんです。たとえば刑事ものや探偵もののスリラーのジャンル全体で、懐中電灯を手に忍び込んで書類の引き出しを照らして、というのはもうできません。それはもう過去のことで、すべてが...

OA その通りですね。

KR すべてがGoogleですよね。

OA 私はとにかく大好きな映画作家の映画を見返していました。サッシャ・ギトリです。サッシャ・ギトリはフランスの映画作家で、彼は劇作家でしたが、トーキーが到来した途端に映画を作り始めました。舞台ではすでに作家としても俳優としても大スターだったのですが、1931年に音声がやって来ると、映画を作り始めたのです。彼はその時々の恋人とそれぞれ10本かそのくらいの映画を作りました。どれも驚くべき映画です。ただただ素晴らしい。彼の映画を見ていて、それは...何というか、彼の作品とはずっと特別な関係を持っているんです。
 ある時点で、私は面白いことに気が付きました。誰も電話を使っていないような時代に、彼は演劇で電話を使っていたのです。かなり平凡なブルジョワの劇場を当初は使っていたわけで、その美学の一部とはされていないものでした。彼はいろいろなことを試していて、(ジャン・)コクトーが『人間の声』(1930年の戯曲)でやったように、電話を使ったモノローグがいくつもあるんです。あらゆる発明やコミュニケーションの新たな次元は、コミュニケーションの概念自体を再定義するもので、テキスト・メッセージでも何でも同様です。
 ところで、知りたかったことなのですが、ここアメリカではどうやって映画の資金調達をしているのですか? つまり、どうやって...

KR その、私のは小規模なんです。知っての通り。

OA どのくらいの予算で...

KR 今回(『ファースト・カウ』)はこれまでの倍くらいだったのですが、この点については皆厳しくて、言ってはいけないことになっています。この映画にはスコット・ルーディンが(エグゼキュティヴ・プロデューサーとして)親切にも参加してくれて、彼とは初めての仕事になりました。加えて、今回は私たちにとって初めて全面的に組合のもとで作った映画でもありました。色々と変わるんですよね。

OA 組合のもとだと違いますね。

KR ええ。一方ではポジティヴな面として、自分の時間が増えました。一定の労働時間内で週5日しか働いてはいけないことになっていて、以前そうした決まりなしで映画を作っていたときから考えれば驚異的でした。

OA フランスでは必須で、そのやり繰りをしないといけないんです。

KR 素晴らしいものでした。普段なら労働時間が18...。自分たち(の心身)を殺すようなもので、年を取りすぎたし寒すぎる、という感じでいます。氷点下の環境でその日の仕事も18時間目となると、私は年を取りすぎています。だからその点は素晴らしかったです。ただ、取られるものも...。

OA ええ。何日間ですか?

KR 撮影日が30日でした。

OA 他の作品についてはどうですか? どれも同じくらいでしょうか。

KR 『ウェンディ&ルーシー』(2008年)は19日くらいだったと思います。『オールド・ジョイ』(2006年)は14日でした。『ミークス・カットオフ』(2010年)はたしか30日で、4日間の再撮影をしたので34日だったと思います。30日前後です。

OA 私も同じくらいです。最近の映画はどれも30日くらいでした。『冷たい水』は20日でした。『イルマ・ヴェップ』(1996年)も20日くらいでした。

KR 本当ですか。これまでずっと予算は少ないですが、編集まで自分でやっていますし、これをしろと言ってくる人も特にいませんでした。

OA そうですね。

KR 完全に放っておいてもらっていた。

OA ええ、自由の代償ですね。

KR そう、自由の代償です。皆さんが手を振っていますね。

OA そうですか。

KR 会ってお話ができて本当に良かったです。あなたの映画の大ファンなので...

OA ええ、とても光栄でした。

KR ありがとうございました。

OA どうもありがとうございました。

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