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June 7, 2025

『ジムの物語』アルノー&ジャン=マリー・ラリユー
結城秀勇

[ cinema ]

 自然の摂理には逆らえない。たしかそんなようなことを友人が言う。生物学的な父親が戻ってきたのなら、育ての親としてジムと接してきたエメリック(カリム・ムクルー)は彼に一歩譲り身を引くべきだ、そんなコンテクストで発せられた言葉だったと思う。しかし、それを聞いて腹をたてたフロランス(レティシア・ドッシュ)は、「ああ"クラシック"が好きなあんたはそうなのかもね。でも"自由な"私たちのことに口出ししないで」とやり返す。結果、そのおせっかいな友人のおかげで、ぎこちないことこのうえない、ジムの母フロランス、生物学的父親クリストフ(ベルトラン・ブラン)、育ての親エメリックという三人組がほんの束の間機能する。
 自然の摂理とはなんなのか。もちろんなんとなくはわかる。高いところから低いところへものが転がり落ちるような、子供は大きくなりやがて歳をとり老いていくような、そんなことなのだろう。でもだとしたら、草花の生い茂った丘で、はいはいをしていた赤ん坊が急に立ち上がって、いまにも斜面を転がり落ちそうな危うい身体の使い方で、人生で初めての一歩を踏み出すことは自然の摂理なんだろうか、それに反することなんだろうか。丘の上にはなんだか危険を感じるほど立派な鋭い角を持った茶色い牛がいて、それがジムの人生最初の一歩にどう関係していたのかは全然わからないのだけど、個人的には、ちょっとしたミラクルに思える。
 おそらく、フロランスの言っていた"自由"もそれに似たところがある気がするのだ。パートで紙の加工や資材管理、夜勤の仕事などをやってきたエメリックに向かって、オリヴィア(サラ・ジロドー)は言う。「それって日本で言う"フリーター"よね。低賃金の仕事をやって引きこもる人たち。そのせいで出生率が低下してる」。freeとarbeiterからの造語である「フリーター」という単語を、いま現在"自由"の発露としてとらえる人などそうはいないだろうと思う。"自由"の名の下に強いられた労働に見合う対価などあるはずがない。でも、その束縛から逃れられれば、この映画の終盤の(おそらく)自営業になったのであろうエメリックのようになれれば、それが"自由"なのかというとそれもまた違うと思う。
 斜面をものが転がり落ちる重力の作用から解放されたら、時間の経過とともに変化していく身体を捨てされたら、われわれは自由になるのだろうか。もちろんそんなことはないのだし、仮にそうなれば私たちは立つことも座ることも横たわることさえもできないだろう。ましてや、重力との危ういバランスの中で踏み出したジムの最初の一歩、妊娠したフロランスのおなかの優雅な曲線、ジムとエメリックが過ごした幸せな時間を象徴するかのような大地の傾斜、そうしたものたちの美しさを目にする機会は失われてしまう(この映画と同じジュラ山脈で『防寒帽』を撮ったジャン=フランソワ・ステヴナンの息子ロバンソン・ステヴナンが、どこかお父さんを思わせる怪しい中年として登場することも)。
 長い時間を経て、大きくなったジム(ビビるくらいにデカい!)とエメリックが再会するとき、彼らがふたりの時間を過ごす場所にあるのは、在りし日のあの幸せな大地の隆起どころではなくて、垂直に切り立った壁面やはるか眼下に広がる湖のような、あまりに美しくてあまりに過酷な地形である。カラビナとロープで身体を支えることなしには一歩も踏み出すことができないようなその場所で、ジムに置き去りにされたエメリックが孤独でヨボヨボした歩みをはじめることは決して無駄ではないのだと思う。
 この映画の最後でわかるように、なんの変哲もない平坦な地面にただ立ち一歩を進めることですら、恐ろしいほど困難なことなのだ。私たちにとって自由とは、その困難さから切り離されることでも、それを忘れることでもない。この身を貫く重力の重みを噛みしめるように、エレクトロのビートに周期的に貫かれながら、うまいとは言えないまでもそれなりに身体を揺らしダンスをつくりあげるようなこと。それこそ自由でもあり自然でもあり、それでいてどこか奇跡のようななにかなんじゃないか。

東京日仏学院「第6回映画批評月間 」にて。6/15 18:00からも上映あり

  • 『描くべきか愛を交わすべきか』アルノー&ジャン=マリー・ラリユー 田中竜輔
  • 『運命のつくりかた』アルノー&ジャン=マリー・ラリユー 角井誠