『トラック』マルグリット・デュラス
結城秀勇
[ cinema ]
ジェラール・ドパルデューが問う。
「ふたりの関係は進展するのですか?」。
マルグリット・デュラスは答える。
「たぶん絶対にない」。
まだ起こっていない出来事を強く否定しているのだから文法的にはなにもおかしいことなどないのだが、『トラック』という映画の中で(しかも監督自身の声で)この言葉が響くとき、「たぶん=peut-être」と「絶対にない=jamais」とが決定的に分裂しているように聞こえる。まるでこの映画の中にあるものはすべて、「たぶん」でもありながら「絶対にない」でもあるみたいに。
だいたいドパルデューとデュラスはなにをしているのだろうか?これからつくられる映画の本読みだろうか。「たぶん」そうだ。でもその映画がつくられることは「絶対にない」。ドパルデューは、都会風の服を着た女性を乗せるトラックの運転手役を演じるのだろうか?「たぶん」そうだが、観客が彼の演技を見ることは「絶対にない」。映像として映る青いトラックは、彼らふたりが読むテキストの中に出てくるトラックなのだろうか?「たぶん」そうかもしれないが、それ以上に言える決定的なことなど「絶対にない」。
カミーユ・ヌヴェールによる講演が、魔女としてのマルグリット・デュラスをテーマとしていたことが非常に興味深い。デュラスというペンネームを選び、それになることを選んだということ。『トラック』においては、彼女自身の声が呪文のように、ベートーヴェンの音楽と拮抗するような旋律を奏でること。そして、他者との関係ではなく彼女自身を形容する言葉がただ「階級から外れた」しかないような女性が主人公のテキストを巡って、革命の不可能性が語られること。この作品が撮られた1977年当時よりも、革命も階級闘争もはるか彼方の靄の中へと遠ざかってしまったかに思える現在だが、たぶん魔女とフェミニズムを結びつけるポジティブな力は、2000年代以降の運動を経てきたいまの方がかつてよりもずっと大きい。階級が崩壊し、闘争の契機すら失われてしまったかのように見える、海辺のなにもない台地に、魔女が召喚され(あるいは誰かが魔女となることを自ら選び)、新たな階級と戦線がうっすらと構築される。
トラックの車窓越しに流れる風景の速度は、引きでトラックの移動が映し出されるときの速度よりも、ずっと遅い。たぶん時速20kmも出ていないんじゃないかという微妙な速さで流れる景色を、こんなにじっと見つめることなどそうそうない。その光景は、テキストの女性が語るように、「あまりに見るものが多い」。その遅さの中で、観客は、「たぶん」にも「絶対にない」にもたどり着かず、期待と絶望の中を揺れ動き、虚無と「すべてはどこにでもある」の両方の場所に居続けることになる。
マルグリット・デュラス 没後30年 全作上映 | アンスティチュ・フランセ