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July 1, 2026

『春樹』『ルオムの黄昏』チャン・リュル監督インタビュー「忘れても、よみがえってくる」

[ cinema , interview ]

DSC01736.jpg『春樹』と『ルオムの黄昏』に映るのは、失われつつある風景たちであり、人物たちであり、言葉たちである。中国の黄金期を支えた映画の撮影所、歴史的に交易で栄えた「古鎮」と呼ばれる町並み、別れてしまった家族、元恋人の存在、故郷の言葉......。しかし、それらは単に失われていくわけではない。残されたものたちの周りを浮遊しては絶えず語りかけ、それぞれの記憶を携えて現在をともに生きようとしているとさえ言えるだろう。こうした喪失と再生をめぐるふたつの映画を通じて、どのような演出が各所において選び取られたのだろうか。日本での劇場公開を控えたいま、来日中の監督にお話を伺う機会を得た。


ーー『ルオムの黄昏』は『春樹』の撮影を終えた直後、休暇のために立ち寄った四川省の古鎮「ルオム」(羅目鎮)で着想を得たと伺っています。また本作には脚本がなく、日々の現場の中で新たな台詞や場面を書いては、その都度俳優たちに渡していったそうですね。

チャン・リュル(以下、ZL) 実は『春樹』にも脚本はありませんでした。というのも、『春樹』も『ルオムの黄昏』も、突然走り始めた企画だったんですね。ただ、前作の『白塔の光』(2023)からのご縁もあり、同じ映画会社からの出資によるものだったので、前作の仕事の経験からも制作を進められるだろうと思っていました。それに当時は成都で生活をしていたので、『春樹』のロケ地にはよく遊びに行っていました。この場所の雰囲気が好きで、行くたびに裏手の廃墟になった峨眉撮影所の周りを歩いていました。ところがある日、この撮影所が近いうちに壊されてビルに建て替えられるんだと。それを聞いてショックを受けましたが、自分の中でどうしても記憶を留めておきたくなり、「ここで映画を撮りたい」と伝えたところ、一ヶ月ほど取り壊しを待ってくれるという話になったんです。だけど撮影プランも何もなく、俳優も急遽探さなければならない。だから『春樹』も脚本はなく、簡単なあらすじを急遽つくっただけで撮影を開始しました。ルオムを訪れた時も、国からのお金でまちが整備されることを聞きました。そこでまちの姿が変わってしまう前にここで映画を撮らなきゃいけないと思い、まったく準備をする時間もなくつくっていったのです。

ーー『春樹』の中で春樹(バイ・バイホー)が北京から越してきた成都の家ですが、実在する建物だったのでしょうか。ベランダ側には高速道路が剥き出したような光景が広がり、反対側には撮影所が目と鼻の先にあることが分かります。

ZL 春樹の家は実際の建物です。彼女は成都に帰って映画に出演することはありません。だけど心は映画の中にあります。俳優として生きていきたかった人なので、心は撮影所の方に向いているわけです。またかつて演技を学んだ恩師の張梅(リウ・ダン)のこともとても気になっています。だから撮影所の近くに住んでいる彼女を探しに行きます。このように撮影所から最も近い場所に部屋を探すことは、とても理屈に合っていると思います。

ーー『春樹』では、春樹と母、あるいは張とその息子である冬冬(ワン・チュアンジュン)という親子関係に焦点が当てられています。また『ルオムの黄昏』では、恋人を探す白(バイ・バイホー)と彼女が宿泊する宿主の劉(リウ・ダン)による女性同士の関係が印象的です。たとえば『群山:鵞鳥を咏う』(2018)や『慶州』(2014)などでは、男女間の恋愛を中心に描かれることが多かったと思います。しかし前作『白塔の光』以降、家族や恩師、共通の知人、旅先で出会う人々など、恋愛とは異なる関係性の広がりが、大きな物語の要素として加わってきているのではないでしょうか。

ZL たしかに韓国で映画を撮っていた頃は、男女の恋愛に関する作品が多かったと思います。ただしこれは、私自身の映画の撮り方の変化とも関係があります。当時の私は韓国の大学に勤めていたので、休日を使って映画を撮っていました。つまりまとまった長い撮影期間を設けた映画づくりが難しかったんですね。また韓国で撮影する映画であるかぎり、その国の社会を映画の中に描いていかなければなりません。ところが韓国の家庭状況に関しては中国ほど知らないので、映画をつくる上では普遍としての恋愛の物語に色々な要素を反映させていく方がつくりやすかったというのがあります。一方、中国で映画を撮る場合は、元々生まれ育った場所なので家族関係がもたらす深みや複雑さをよく知っています。このことからも中国で映画を撮る際に描かれる人間関係というのは、より広がっていったんだと思います。

MTサブ2.jpegーー『春樹』では酒に酔った春樹を冬冬が彼女の自宅へ連れて行く場面があります。その後、翌朝の二人の会話の中で「自分の部屋に一緒に入りたかった?」と尋ねる春樹に対して、「下心はあったけれど度胸はない」と冬冬は返します。また『ルオムの黄昏』では、恋人である劉と黄(ホアン・ジェンシン)との会話の中で、不妊治療の話を彼女から告げる場面があります。このように男女の二人が言葉によって徐々にお互いの心を交わしていくというよりも、どこか直接的な会話が双方に取り交わされています。

ZL 『春樹』の場合、春樹と冬冬の二人はお互いに好意は感じているけれども、ここからどのように距離を縮めていくのかという段階にあります。そういった時はあえて回りくどい言い方をしたり、話半分で止まってしまったりということがよくあるわけです。まるで二人のあいだで綱引きをしているような状況なんじゃないかと思います。その結果が少しずつ発展していけば恋愛関係に変わっていくだろうし、そうでなければ友だち止まりで終わるかもしれない。だからあの場面では、そういった会話が出てきても良いのかなということを経験として踏まえ、彼の台詞を考えました。
『ルオムの黄昏』の場合は、劉という人物の年齢も『春樹』の二人に比べれば上ですし、人生経験も多いわけですね。過去に色々な傷もあったりすると。とくにそういった人物は若い彼女と自分の過去の辛いことを話していく中で、回りくどいことはせずに大胆で直接的な話もすることができる。そして彼女も自身もそういったオープンな性格でもあるんじゃないかと思います。これが男女のあいだで話をする時はそれほど直接的な言い方をしないのかもしれません。だけど女同士あるいは男同士であれば、大胆に話すこともあり得るのではないかと思います。劉さんは自分がもうすぐ更年期で生理も終わるんだということを明け透けに言ったりもしています。だけどそれは同時に、彼女が人生経験を多く積んだことを物語っているのです。

ーー監督の映画には、つねに歌が重要な役割を持っています。『ルオムの黄昏』で流れる韓国民謡の「アリラン」、また『春樹』では「大白兎キャンディ」の包み紙を見ながら、春樹が口ずさむ童謡のような歌がそれに当たります。とくにアリランは、歌い手やその地域によって様々なバリエーションが存在しますが、劇中ではロック調にアレンジされたものが使われています。これらはどのように選定されたのでしょうか。

ZL 実生活の中でも、歌ったり踊ったりする場面はとても多いのではないでしょうか。たとえば普段疲れている時に歌ってみると、酒を飲んだ時のようなリラックス効果が得られると私は思っています。沈黙している時に比べて、歌ったり踊ったりする時に生じる感情の状態が好きだからなのかもしれません。またこのことは、俳優の演技においても大きな利点があります。ふたつの映画の主演であるバイ・バイホーさんには『春樹』の中で一部踊ってもらいましたが、元々ダンサーだということもあり、過去の本人の記憶が現在と結び付くことで、より表現豊かに春樹を演じてくれました。
 『ルオムの黄昏』の「アリラン」は、出稼ぎに行った父親がアリランの歌を好きだったという台詞がありますが、同じ曲でも最初と最後とでは音楽の雰囲気がまったく違いますよね。これは『柳川』(2021)で渡し船の中で酒を飲み、歌った挙げ句に裸で飛び込む韓国人男性の二人組が登場しますが、最初のバージョンはそのうちの一人にお願いして電話の受話器越しに歌ってもらったものです。また彼らが踊り出す際に使用しているものは、朝鮮族の方々がバンド編成で演奏された音源を使っています。シークエンスの最初と最後とで異なるバージョンを使うことで、この映画の世界観は次第に広がり、雰囲気も違ってくることを示すために別バージョンで繋ぎました。

ーー『春樹』の春樹と冬冬はともにドライアイの設定なので、劇中でしきりに目薬を差します。また春樹が撮影所で黄監督(ホアン・ジェンシン)に出くわす場面では、監督に対して不意に「結膜炎ではないですか?」と尋ねます。このように、お互いの目や視覚を通じて生じる「見えること/見えないこと」のイメージが、どちらの映画にも各所において強調されているように思います。

ZL 「映画は見て聞く芸術」と言われていますので、私も「見える」という概念についてはよく考えます。視覚として見えているけれど、認識していない。つまり見えていないということもあるんだと思います。その時々の精神状態にもよりますが、やはり普段の生活の中でも、自分と周囲にある世界とは見えていたり見えていないことと非常に密接な関係があると思います。またドライアイや結膜炎の原因は花粉症のようなアレルギーなのかもしれないし、大気汚染が影響しているのかもしれません。ただ、このように何か疾患や症状を持っている人は、他人の似たような様子によく気付きがちです。なのでそれぞれの場面での所作は、相手の気持ちを理解できる人物たちであることを物語っています。 

GLMサブ.JPGーー『春樹』や『ルオムの黄昏』を通じて浮かび上がるのが、「忘れられつつある」ものたちの存在です。『春樹』の認知症を患う張先生をはじめ、春樹自身も張先生の指導によって成都の方言を忘れてしまっている。また『ルオムの黄昏』では、朝鮮語を話せない朝鮮族の朴(パオ)という宿泊者が登場します。またこれらは『春樹』に出てくる撮影所や、『ルオムの黄昏』の舞台となる古鎮のルオムにも重なります。しかし、忘れられつつある人物、言語、場所などは出てくるものの、変わりゆく現在の状況と折り合いをつけながらも、失ってしまった記憶の断片、あるいは広がりがこれらの映画に息衝いているのではないかと感じました。

ZL たしかに張先生は認知症患者ですが、つねに記憶が曖昧な状態ではなく、時にはしっかりしていたりもします。また彼女は、かつて演技の世界において主流だった「標準語を使わなければいけない」という価値観から抜け出せず、当時の教え子の春樹には成都の方言を忘れるように指導した張本人です。時代は変わり、今や方言でも映画を撮ることは許されます。だけど春樹は、張先生の影響で成都方言を捨ててしまった。そのため彼女は俳優として成功する機会を失ったわけで、言語を奪い、あるいは言語を失いつつある張先生に夢を壊されてしまった人物だとも言えるでしょう。ちなみに『ルオムの黄昏』に出てきた朴役のピャオ・ソンリーさんは『春樹』と『ルオムの黄昏』の撮影監督でもありますが、実際に朝鮮族の方です。子どもの頃に両親が出稼ぎに行くため、親戚に預けられた過去があることから、一言も朝鮮語ができません。私はよく冗談まじりに「お前は偽の朝鮮族だ」だなんて彼に言いますが、まったく朝鮮語が話せなくても彼の身体には朝鮮族の血があり、骨があります。だからアリランは歌えるわけですね。何かのきっかけで魂に火がつくように、アリランが流れてくれば踊れるし、身体に染みついた出生の記憶はちゃんとよみがえってくるんです。
 実生活を営んでいく中で、どんな人間でも記憶というものはさほど残りません。どれほど大事な記憶であっても、消え去っていってしまうものです。だけど、きちんと整理することで喪失を遅らせることができたり、今まで見えてなかったものがはっきりと見えてくることはあります。記憶というのはその人のすべてです。記憶をきちんと残しておくということが、その人の感情や生活を豊かにしていきます。それは人であろうと、国であろうと、民族であろうと、大事なのは記憶なのです。つまりその記憶に対して、自分はどういった態度を取っていくのか。そのことで私たちの国や民族が、どれほど続いていくことができるのか。そのことに繋がっていくのだと思います。そういった意味で映画にも、失われていくかつての記憶を留め、救い出すための役割があるのではないでしょうか。

2026年6月9日、銀座
取材・構成:荒井南、隈元博樹
写真:隈元博樹
通訳:中山大樹

MTメイン.JPG『春樹』 Mothertongue
2025年/中国/122分/16:9
監督:チャン・リュル
出演:バイ・バイホー、ワン・チュアンジュン、リウ・ダン、ポン・ジン ほか




GLMメイン写真.jpg『ルオムの黄昏』 Gloaming in Luomu
2025年/中国/99分/16:9
監督:チャン・リュル
出演:バイ・バイホー、ワン・チュアンジュン、リウ・ダン ほか

7月3日(金)より シネスイッチ銀座にて二作品同時公開
公式サイト:https://zhanglu-japan.com/
公式X:https://x.com/zhanglujapan


DSC01744_a.jpgチャン・リュル(張律) Zhang Lu
1962年、中国・吉林省延辺朝鮮族自治州生まれ。中国朝鮮族三世。小説家として活動後、映画監督へと転身。長編デビュー作『唐詩』(2003)、『キムチを売る女』(2005)、『豆満江』(2010)、『群山』(2018)、『福岡』(2019)、『柳川』(2021)、『白塔の光』(2023)など多数の作品を発表。2025年には『春樹』が第38回東京国際映画祭コンペティション部門に、『ルオムの黄昏』が第30回釜山国際映画祭コンペティション部門にそれぞれ選出され三冠を獲得した。







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