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February 9, 2019

『ワイルドツアー』三宅唱
結城秀勇

[ cinema ]

 飛び立つスズメとその鳴き声、水たまりに張った氷、フェンスと道路の間に挟まってカサカサと震える枯葉、川に至る階段、高架下で聞こえてくる「トントントントントン、さあきたよ、みぎみぎひだり......」という少年の声。冒頭、立て続けに配置される断片的な映像は、いったい誰の視点なのだろう。当たり前に考えれば、木々の葉が揺れる映像から、そこに向けてスマートフォンのカメラを構えるうめ(伊藤帆乃花)のカットへのつなぎによって、それまでの映像は彼女が撮影していたもの、つまり彼女の視点だったのだということになる。スマホ映像は音響的(ch数)にも映像的(画質)にも、それを撮影する人物を含んだ本編を織り成すショットからは差別化されていて、だからそれはいわば劇中劇のような、別の位相にあるのだろうと考える。
 でもそれはいわゆる見た目ショットじゃない。彼女たちがそういう画を撮ったからといって、彼女たちがそう見た、とは限らない。あるいは2000年をまたいだ一頃、しきりに用いられていたPOVのような手法とも全然違う。観客があたかもその場にいるかのような感覚を付与できるかのように用いられた手法、カメラの動きとそこに(多くは撮影者のコメントとして)付された音響によってひとつのキャラクターを作り上げるような手法ともまったく異なる。
 『ワイルドツアー』を見ていてふっとめまいのような感覚に襲われる瞬間がある。YCAM (山口情報芸術センター)のラボにひとりいるうめが、iPhoneのアプリ(?)を通じて、いま陶ヶ岳で植物採集をしているザキヤマ(山崎隆正)のカメラで撮られている映像を見る場面だ。編集上、まるでうめはまったくリアルタイムにザキヤマたちの撮影した映像を共有しているように見える。いまそこにはいないどこかの映像と音と、重なり合うようにして、隣り合うようにして、彼女はいまそこにいる。
 この映画の中に出てくる少年少女たちは、山口市周辺の植物や微生物を採集して、そのDNAを調べている。海や山、川や街の風景の中にある、名前も知らない、注意を向けなければ形もよくわからない小さな生き物たちを集めては、そこから情報を取り出し、可能であればその名前を呼ぶ。彼ら彼女らが採集のかたわらで撮影し続けるスマホの映像も、彼らの集める植物や微生物と同じようなものだ。だが、植物や微生物を採集するとは、多くの場合はそれらを本来の環境から引き離し、部分的な死を与えることでもある。けれどもそれによって、摘み取り、すり潰さなければ知ることができなかったそのものたちの名前を知ることができる。だから彼らが撮影する映像たちも、私たちが普段見ることだと思っているなにかが、部分的な死を経たかたちなのかもしれない。写真を撮られると魂が抜けるという話じゃないが、見るということのなにかを担保することで引き換えに得られたかたち、それが我々が日頃なにげなく目にしている映像なのではないか。
 自分たちが撮影した動画を、シュン(安光隆太郎)がパソコンのモニターで確認するというシーンがある。その場面は画面を見るシュンの真正面から撮影され、こちら側を見る彼の顔と私たちの間には、彼の見つめる映像が表層を滑る一枚のガラスがある。いったいこの場面で、見るという行為を行っているのは誰なんだろう。撮影した映像を見ているシュンか。彼を見ている観客か。あるいはその間にある一枚の表面を駆け抜ける映像こそが、彼を、そして我々を見つめているのだろうか。
 受験、別れ、失恋。そうした、人生に大きな変化をもたらすかもしれないしそうではないかもしれない出来事を経験する少年少女たちの二ヶ月間あまりを、わずか1時間ちょっとの時間で観客は目にする。その見え方は、大人が子供の振る舞いを微笑ましく見守る、といったようなことよりも、物言わぬ草花がまったく異なる時間のスケールを生きる人間たちを見るやり方に近いのかもしれない。ひょっとしてそんなものがあるのなら、まるで名もない葉っぱや石ころのように氾濫する映像たちが、私たち人間を見るやり方に近いのかもしれない。

3/30より渋谷ユーロスペースにて公開
2/20、24に第11回 恵比寿映像祭(2019)にて上映


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