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March 13, 2026

『おあがりんちょ』小森はるか
結城秀勇

[ art , cinema ]

 『春、阿賀の岸辺にて』の被写体であった旗野秀人さんの妹である中村美奈子さんが被写体なのだから、この作品を『春、阿賀の岸辺にて』の姉妹篇(兄妹篇?)と呼んだって間違いではないと思う。だが、中盤に置かれた「冥土の土産」の初のお泊まり会の場面は、『春、阿賀の岸辺にて』とこの作品の結節点になると同時に、決定的な分岐点ともなる。そこで明らかになるのは、病気で参加できなくなった姉と入れ替わるように美奈子さんがこの活動に加わるようになったこと、それまでは夫との関係から深く活動に関わることができなかったということだ。その瞬間、この映画のすべてが『春、阿賀の岸辺にて』「ではなかった」ものとして見えてくる。東京に出たが、結婚もせずに独り身で地元に戻ってくることなどできなかった。言い訳せずに夜家を出れたのは、子供と行くママさんバレーくらい。70年安保に反対するビラを撒き補導された高校時代ははるか遠く、いまテレビに映るニュースを見て広島の平和教育に感心しながらもつぶやく、「それなのに日本ていう国は......、ほんとにもう」。家の前から窓越しに見える階段の、イサムノグチ「ではなくなった」和風ランプシェード。
 ならば「ではなかった」美奈子さんはなにをしているのか。湿りを帯びて重くなった畑の土を踏みつける長靴、日課のトレーニングとしてピョンピョンと床を踏みしめる素足、ソフトバレーボールで鮮やかに決めるサービスエース、表紙がかわいいからとつい多く借りてしまう図書館の本、夫に教わったサイフォン式コーヒー、そんな日々の営みを音楽が彩る。そのすべてがとてつもなく豊かだ。ネイティブ・アメリカンの植物学者が書いた本(書名は明らかにならないが、どうしてもロビン・ウォール・キマラーを思い浮かべてしまう)を読んだと語る美奈子さんは、だから私がこうして植物を植えたりするのも無駄ではないだろう、と言う。でもここに記録された美奈子さんの営みのひとつひとつは「無駄ではない」どころか、控えめに言っても(このいまの「日本ていう国」においてはなおさら)かけがえがないものに思える。
 叶わなかった理想、潰えた夢、できなかったことやらなかったこと、それでもそれらがいまの自分の環境を用意してくれたと感謝する。だから映画の終盤に、監督が美奈子さんの「夢」について尋ねる瞬間、本当にドキッとする。答えは、「私の夢はこうでした、それは叶ったor叶わなかった」、そんな単純なものではない。でもそれはわかっていたことだ。初めて画面に登場する運転シーンのカーステから流れていた歌の通り、美奈子さんの過去も現在も未来も全部、「夢じゃない」のだ。あるいは、畑仕事のつらさをつい口にした自分を諌めるように言いなおす力強い一言も、それと同じくらいこの映画と美奈子さんのことを語っているのかもしれない。「や、それでいい」。

恵比寿映像祭2026 コミッション・プロジェクトは3/22まで展示中

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